ヒマラヤ - 7000m以上の山々 - *
| * Set up | 2026/1/26 |
| * Updated | 2026/1/26 |
| トップページ | 目 次 | 凡 例 | ヒマラヤ | 序 | 後 記 | 附 録 | 参 考 文 献 | |||||||||||||||||
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| ヒマラヤ - 7000m以上の山々 - |
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| ー は踏査ルート(点線部分は編者推測) | ******* |
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| *附録5 Appendix 5 | |
| 木村肥佐生・西川一三の東チベット踏査ルート(1947/2~1947/8)について | |
| (Appendix 5: Identification of the exploration route of Eastern Tibet by H. KIMURA and K. NISHIKAWA (1947/2~1947/8)) | |
| (文中敬称略) |
| 区分 | 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | ||||||||||||
| 本文 ()内はページ数 |
*木村82, p193 / 木村58, p172 「東チベット一周図」 |
本文 ()内はページ数 |
*西川91, p268行程図 [ ()内は西川68, p41の表記 ] |
本文 ()内はページ数 |
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| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] | |||||||||||||||
| (1) ラサ出発 |
確か二月二十六日早朝、まだ薄暗い内に西川氏と一緒にラサ#1の町を出た。(・・・) (p191) |
ラサ#1 | 早春の朝私達ふたりはラサ#1の東南からキチュー盆地を東南にターチェンロー(康定)#2に向け、第一歩を踏み出した。(・・・) (p273) |
ラサ#1 (ラッサ) |
二人はまず、東チベットにおける最大の街であるチャムド#76に向かうことにしていた。 そこで、ラサ#1の市街を出ると、ジャサク公路を東に歩きはじめた。 このジャサク公路とは、古来、中国の王朝政権がチベットのラサ#1に向かうために拓いた唯一の公路で、チャムド#76からさらに中国四川省の成都へと続いている。 (p120) |
#1:ラサ {木村} / ラサ(ラッサ){西川} / ラサ {沢木} 拉薩 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 西蔵 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] ХЛАССА [Bichurin1828m] LHASA 11600 [RGS1884m2] LHASSA 3565 [Dutreuil de Rhins1889m] LHASA [Bower1893m] 喇薩 [西蔵全図04m] LHASA [Waddell04m] 喇薩[鑪藏道里最新考07] LHA-SA 11831 [SOI14m] LHASA [Pereira25m] 拉薩 [西藏地方詳圖39m] 拉薩(ラツサ)[ユック80(2), p356] ラーサ 3685 [陸測-1/100-印東-3-42m] LHASA [AMS-1301-1/100-NH46-47m] LHASA 12087 [USAF-1/200-CL305-51m] ЛХАСА [USSR-1/20-H-46-20-86m] 拉薩 (Lhasa) [西蔵地名96, p256-257] 拉薩 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 拉薩市城关区 [西藏自治区地図冊2024, p22-23]
◯編註 古くからチベットの政治的、文化的中心地。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B5%E5%B8%82 #2:康定 {木村} / ターチェンロー(康定・打箭炉){西川} ◯編註 現在の康定市 (四川省甘孜藏族自治州)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%AE%9A%E5%B8%82 |
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| (2) ラサ~メトグンカ |
ラサの東約六キロの地点、ドルジ渡船場#3でゴワ舟に乗り、ギイ・チュウ川#5を渡った。(・・・)一九五五年になってこのドルジ渡船場に中国共産軍が大きな木造の橋をかけた。#4 (p192) 背負子のひもが肩にくいこむ。第一日目は小さな村に泊まり、第二日目はガンデン寺院#9のある山すそを回ってメトク・グンカ村#10の近くで泊まった。巡礼姿の道中、道連れができるのはうれしいが、半面危険でもある。 最初の野宿をする。翌日子供をおぶった妻を連れた弁髪のカムバと道連れになった。(・・・) (p192) |
ガンデン寺#9 メトクグンカ#10 |
ラサの街を後に、沙地のキチュー盆地を過ぎ、キチュー河#5畔に出たことは前述したが、対岸のオンゴリーの岩山#6が迫ってくる河を皮船で渡り#3、我々はこの山麓下を河に沿って上って行った。しばらく行くと、開墾された平野に出た。沙地と粘土と石ころだらけの畑に青稞の根が、ほこりをかぶったまま残されており、ラサから一歩離れただけでも、この地方は肥沃な平野に恵まれないことを見せつけられた。一農家の軒下を借りて身を横たえて、西康#7への第一夜を迎えた。 (p274) 二日目、路傍に小さな石造りのダカン(駅亭)がとり残されたように建っていた。ふたりはようやくのこと、そこまでたどりつき、第二夜を迎えた。陽光に輝くポタラ宮殿はまだ姿を見せていた。二日進んでラサから、わずか三十キロしか進んでいなかったのである。(・・・) (p274) 翌日進むにつれて対岸のゴーラの山#8も河に迫り、かつ次第にそそり立って、石だらけの狭い谷はふたりを吸い込むようにせまり、振り返ればラサの街もキチュー盆地もまったく姿を消し、しだいに山の大自然に包まれて、文明の世界から一歩一歩はなれていったのである。 隘峡に入ると、キ河#5は大きくカーブして、北方に屈折し、再び東方に屈折して、対岸には、点在する農家が姿を見せてきていたが、南岸の道は相変わらず屏風のように屹立して河に迫り、石だらけの山麓を進んでいた。駅亭から十六キロも進んで山鼻にかかると、その山麓に野宿しなければならぬほど、友は疲れていた。 峨々として天空に聳えている頭上の山峰には、ガンデン寺#9のラマ塔が美しい姿を見せていた。(・・・) (p275) 翌日もわずか十五キロも進まぬうち、畑の中の一農家の庭先に一夜を明かしてしまった。遅々として進まぬふたりの旅は、翌日さらに河を十五キロばかりさかのぼって、ようやくの思いで「メトグンカ」#10の部落にたどり着き、農家に一夜を求める。普通ラサから二日の工程をふたりは五日も費やしていた。 部落は、石造りの赤土で固められた、しかもその大部分はボロボロに崩れ落ち、野鼠の巣のような低い家が三十余戸密集し、殺伐とした雰囲気を漂わせていたが、その背後の黄土の山腹には白亜のラマ廟の美しい建物がそびえ、見るかげもない民家と強い対照を示し、チベット特有の階級差のひどい風景を見せていた。 部落は駅亭がありキ河の渡し場#11もあって、ソーゾン#57、チャンドウ(昌都)#76に通ずる間道の中路や、シナ方面に行く公路が通じており、交通の要地となっている。(・・・) (p277) |
ガンデン寺 (ガンデン廟)#9 メトクグンカ (メトグンカ)#10 |
最初の日は、キチュ盆地を過ぎ、キチュ河#5を皮船で渡り#3、夕方、農家の軒下を借りて眠った。 二日目の夜は最初のダカンに泊まった。 (・・・) 三日目は狭い谷あいを進んだ。やがて振り返ってもポタラ宮が見えなくなり、文明の世界から離れていくという感が強くなった。 その日も、木村があまりにも疲れ果てていたため、わずかに進んだだけで山麓に野宿することにした。 見ると、右手の頭上の山の峰にはガンデン寺#9のラマ塔が美しくそびえていた。 四日目も農家の庭で夜を明かし、五日目にようやくメトグンカ#10という集落に到着し、農家に泊めてもらうことができた。 メトグンカ#10はラサから第ニの駅亭があるところだった。 駅亭としてはニ番目だが、ここでチャムド#76方面に向かう道と青海省の玉樹#106方面に向かう道とに分岐するため、ラサからの旅の出発点と見なされていた。 この方面に向かうチベットの旅人は、一日で駅亭から駅亭までの区間を歩く。つまり、二人は、普通の旅人が二日で歩くところを五日もかかったことになる。 (p121-122) |
#3:ドルジ渡船場 {木村} / 「河を皮船で渡り・・・」{西川} / 「キチュ河を皮船で渡り・・・」{沢木} Ferry [Waddell04m] Ferry [SOI-77O-25m] FERRY [AMS-1301-1/100-NH46-47m] 香卡(村)渡口 [ https://www.xzxw.com/lyrw/2015-03/21/content_1285750.html ](2026年1月現在)
◯編註 木村・西川が利用した渡船場については、ラサ(ポタラ宮)の南東約6kmに位置するShanga(現在の香嘎村)付近にあった「香卡(村)渡口」と比定される。木村は、渡船場の名称を「ドルジ渡船場」としているが、編者の調べた範囲では木村以外の資料でこの名称は確認できなかった。ちなみに、この渡船場はチベットの大貴族夏蘇家が管理していたという [ https://www.xzxw.com/lyrw/2015-03/21/content_1285750.html ](2026年1月現在)。 #4:「一九五五年になってこのドルジ渡船場に中国共産軍が大きな木造の橋をかけた。」{木村} ◯編註 木村が記す木造の橋については、1954年12月の康蔵公路(川蔵公路)開通直前の短い期間(1954年12月2日~20日)で香卡(村)渡口の下流約4kmの地点(現在の「拉薩大桥」付近)に架橋された。この橋は臨時に架けられた単車道の橋であったため、腐朽や交通量の増大に対応するための新たな橋「拉薩大桥」が架橋された(1963年10月起工、1965年8月25日開通。詳細は拉薩市志2007, p821, p824及び下記URLを参照。2026.1 確認)。 [ https://lasa.xzdw.gov.cn/zlk_868/lsds/dsjs/202303/t20230329_335169.html ] [ http://media.tibet.cn/video/p/20190329/1538119522584.shtml ] [ https://www.xzxw.com/lyrw/2015-03/21/content_1285750.html ] #5:ギイ・チュウ川 {木村} / キチュー河、キ河 {西川} / キチュ河 {沢木} 噶爾招穆倫烏拉 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] Р. Каргжа-мурöнь [Bichurin1828m] Ki chu [RGS1884m2] Ki tchou ou R. de Lhassa / Galdjao mouren [Dutreuil de Rhins1889m] 喇薩河 [西蔵全図04m] Kyi Chu [Waddell04m] Kyi R. [SOI14m] 噶爾招木倫江 [鑪藏道里最新考07] 拉薩河 [西藏地方詳圖39m] ボチユ河、ボチウ河[ユック80(2), p353] Kii-chu (River) [AMS-5304-1/150-X11-45m] Kyi Chu [AMS-1301-1/100-NH46-47m] KYI CHU (RIVER) [USAF-1/200-CL305-51m] Лхаса (Гьи-Чу) [USSR-1/20-H-46-20-86m] 拉薩河 (Lhasa He) [西蔵地名96, p258] 拉薩河 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 拉薩河 [西藏自治区地図冊2024, p22-23] ◯編註 ラサの南を流れる河。曲水付近でヤルツァンポ河と合流する。詳しくは、下記Wikipediaおよびこちらを参照のこと。(2026年1月現在) https://en.wikipedia.org/wiki/Lhasa_River #6:「対岸のオンゴリーの岩山」 {西川} Pombo Ri [SOI-77O-25m] (編者推測) Pom-bo-ri [外文出版社62, 参考図6 (「N. E. F. SHEET I」 GENERAL STAFF INDIA (1913))] (編者推測) 「キチュ河南方のブムパリ丘」 [リンチェン・ドルマ・タリン91, p269] (編者推測) ブンパ・リ [旅行人編集部2006, p42-43] (編者推測) ◯編註 渡船場の南側(ラサ河南岸)にある「Pombo Ri」のことではないかと編者は推測している。 #7:西康 {西川} ◯編註 20世紀前半にチベットの東部地域を管轄していた西康省のこと。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%BA%B7%E7%9C%81 #8:「対岸のゴーラの山」 {西川} ◯編註 ラサの北側の山嶺。詳しくはこちらを参照のこと。 #9:ガンデン寺院 {木村} / ガンデン寺(ガンデン廟){西川} / ガンデン寺 {沢木} Гантень [Bichurin1828m] Ga-den My. [SOI14m] 噶登寺 [西藏地方詳圖39m] カデンゴムパ [陸測-1/100-印東-3-42m] Гардинг [USSR-1/20-H-46-20-86m] 甘丹寺 [西藏自治区地図冊2024, p26-27]
◯編註 現在の甘丹寺(拉萨市达孜区)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E4%B8%B9%E5%AF%BA + #10:メトク・グンカ村 {木村} / メトグンカ {西川} / メトグンカ {沢木} 墨竹工卡 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 墨竹工卡 [衛藏圖識1792(圖考上巻(程站))] Мѣчжугунга [Bichurin1828m] MeduKongkar Jong [RGS1884m2] HotchouKong tcha (Modjdubgoungar) [Dutreuil de Rhins1889m] 墨竹工卡 [西蔵全図04m] 墨竹工 [鑪藏道里最新考07] Medu Kongkar [SOI14m] Me-tro-kong-kar [Pereira25m] 墨竹工卡 [西藏地方詳圖39m] 墨竹工卡 [ユック80(2), p361] メタコングガル [陸測-1/100-印東-3-42m] Medu Kongkar Dzong [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Kase Gompa? [USAF-1/200-CL305-51m] КУНГГАР (МЭДЖОКУНГГАР) [USSR-1/20-H-46-20-86m] 墨竹工卡 (Maizhokunggar) [西蔵地名96, p317-318] 墨竹工卡 (工卡) [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 工卡鎮(墨竹工卡県)[西藏自治区地図冊2024, p36-37]
◯編註 現在の工卡鎮(墨竹工卡県)。詳しくは下記Wikipedia及びこちらを参照のこと。(2026年1月現在) https://en.wikipedia.org/wiki/Kunggar #11:「キ河の渡し場」 {西川} ◯編註 メトグンカ付近にあった渡しと思われるが詳細は不明。 ちなみに、「欽定大清一統志 (巻413)西藏」の「津梁 (衛地諸橋)」の項には次のような記述があり、かつては鉄索橋があったと思われる。 「衛地諸橋蓬多鐵索橋在蓬多城西達穆河旁(・・・)鄂納鐵索橋在墨爾恭噶城北二十里噶爾招木倫江岸」 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] | |||||||||||||||
| (3) メトグンカ~鹿馬嶺(ヌマリ) |
チベットにおける蒙古人の相場はバカ正直ということになっている。カムバのことわざに名文句がある。 人殺さずば食を得られず、寺遍歴せねば罪業消滅せず。 人殺しつつ寺めぐりつつ、行け行け、南無阿弥陀仏。#12(p194) (・・・)ところどころに草が生えた谷間をオイセルジャン#16経由、七日間上りつめて、ギャゴンボワラ峠(またはギャアラ峠)#17を越える。低いなだらかな赤土の峠。この峠を越えると森林が次第に深くなって来る。物すごいから松や針葉樹の処女林が立ち腐れになっている。(・・・) (p194) |
ギヤラ峠#17 | メトグンカ#10の部落を後に、公路に沿って東南に開けている渓谷を上って行く。(・・・) (p278) 部落を離れて間もなく、モンラム祭典#13を見ての帰りだという、子供連れの、服装のみすぼらしい若夫婦と一緒になった。この若夫婦はデルゲ(徳格)#14出身の西康人であった。(・・・)そしてジャムダ(昭太)#23で別れるまで私達の良き道連れとなってくれた。 不毛の渓谷を上るにつれて黄土の禿山は迫ってくる。その日は山懐に石造りの小さな家が二十戸余り密集している「リンチェンリン」#15という部落の村外れに野宿し、星空を仰いで横になる。 (p278) 翌日、石だらけの千仞の谷間に降り、「ヌマリー」の山#17を登って行く。ラサを出て初めての峠である。シナの書に、「ヌマリー(鹿馬嶺)の山は高く、やや嶮しい。約四十支里に渉る。山頂に至るまで遭遇する氷雪の峻峰は心を寒からしめ、眼を曇らす。ために山頂に至るときは、あたかも平原を越えるが如き感がある・・・・・」とある。#18西からの山越えはたしかにそのとおりである。黄土、石礫の荒涼としたなだらかな傾斜も、六合目頃から雪となり、びしょびしょに濡れた足は休息を与えない。ようやくの思いで峠に辿りついた頃、雪は膝を没していた。 (p279) |
リンチェンリン#15 オーズソン#16 ヌマリー峠#17 |
チベット人はカムの住人をカムパと呼ぶが、そのカムパは体格もよく、中央政府に柔順でもない。どちらかといえば、荒々しいところがあり、巡礼をするカムパのあいだにはこんな諺さえあるという。 「人殺さずんば、食を得られず。寺、遍歴せずんば罪業消滅せず。人殺しつつ、寺巡りつつ、行け行け、オムマニペメフム」#12 (p122) メトグンカ#10の集落を離れてしばらくすると、ラサでモンラムの祭典#13を見物してきたという子連れのカムパの若夫婦と道連れになった。(・・・) (p123) その夜はリンチェリン#15という小さな集落の外れで野宿をした。 翌日、ラサを出て初めての峠であるヌマリー山の峠#17に差しかかった。 (p123) |
#12:『カムバのことわざに名文句がある。人殺さずば食を得られず、・・・』 {木村} / 『カムパのあいだにはこんな諺さえあるという。「人殺さずんば、食を得られず。・・・』 {沢木} ◯編註 カムバのことわざとされるこの言葉は、木村と沢木の著書ではともにメトグンカを過ぎた旅程の箇所で紹介されている。 #13:モンラム祭典 {西川} / 「モンラムの祭典」 {沢木} ◯編註 ラサにあるデプン寺、セラ寺、ガンデン寺の僧侶たちがジョカン寺に集まり正月の時期に開催されるモンラム祈祷祭のこと(詳しくは下記URLを参照)。(2026年1月現在) https://peregrinetreks.com/ja/blog/tibetan-festivals モンラム祭典については、木村、西川等が記述を残している(木村82, p190-191、西川91, p211-246、沢木2025b, p113-115、リンチェン・ドルマ・タリン91, p245-261)。 #14:デルゲ(徳格){西川} ◯編註 現在の徳格県(四川省甘孜藏族自治州)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%A0%BC%E7%9C%8C + #15:リンチェンリン {西川} 仁進里 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Женьцьзиньла [Bichurin1828m] Djintsinli [Dutreuil de Rhins1889m] 仁進里 [西蔵全図04m] 仁進里 [鑪藏道里最新考07] Rin-chen-ling [Pereira25m] Rinchenling [SOI-1/100-No.82-29m] 仁欽里 [西藏地方詳圖39m] リンチェンゴムパ [陸測-1/100-印東-3-42m] Rinchenling [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Rinchenling [USAF-1/200-CL305-51m] Риндженлинг[USSR-1/20-H-46-21-86m] 仁青里 (Rinqênling) [西蔵地名96, p414-415] 仁青里 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 仁青林(墨竹工卡県)[西藏自治区地図冊2024, p36-37]
◯編註 現在の仁青林(墨竹工卡県)と比定される。 + #16:オイセルジャン {木村} / オーズソン {西川行程図} 烏蘇江 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] 烏斯江 [鑪藏道里最新考07] O-ser-chang [Pereira25m] Osekyang [SOI-1/100-No.82-29m] Osekyang [USAF-1/200-CL305-51m] 烏斯江(Oisêrkyang) [西蔵地名96, p491] 烏斯江(墨竹工卡県)[西藏自治区地図冊2024, p36-37]
◯編註 現在の烏斯江(墨竹工卡県)と比定される。 #17:ギャゴンボワラ峠(ギャアラ峠){木村} / ギヤラ峠 {木村一周図} / 「ヌマリー(鹿馬嶺)の山」{西川} / ヌマリー峠 {西川行程図} / 「ヌマリー山の峠」 {沢木} Gia La [RGS1884m2] Gia la / Mts. Loumari [Dutreuil de Rhins1889m] (牙拉山口) / 鹿馬嶺 [西蔵全図04m] 鹿馬嶺 [鑪藏道里最新考07] Kong-bu Pa P [SOI14m] Gungbu Ba La [Pereira25m] Kongbo Pa (or Gua) P 16900 [SOI-1/100-No.82-29m] 公巴拉(錯木拉) [西藏地方詳圖39m] Kongbo Pa P 5151(16900) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] KONGBO PA PASS [USAF-1/200-CL305-51m] Kong-bu-BaLa [外文出版社62, 参考図6 (「N. E. F. SHEET I」 GENERAL STAFF INDIA (1913))] ルマリ山(鹿馬嶺)[ユック80 (2), p367] пер. Конгбопа 5050 [USSR-1/20-H-46-21-86m] コンボ・パ・ラ [ウォード2000, p458, p518-519, p523]
◯編註 この峠はラサ-ギャムダ間の街道上に位置し、コンボ・パ・ラ(Kongbo Pa Pass)とも呼ばれていた。現在ではこの峠の北西約15kmに位置する「米拉山口」(5013m)を越える自動車道路(川藏公路南线 (G318))がある(2019年には米拉山口の下を通る拉萨—林芝を結ぶ高速道路(拉林公路)のトンネル(米拉山隧道)が開通している)。 「米拉山口」については下記URLに説明がある。(2026年1月現在) https://baike.baidu.com/item/%E7%B1%B3%E6%8B%89%E5%B1%B1%E5%8F%A3/7488691?fromModule=lemma_inlink 「米拉山隧道」については下記URLに説明がある。(2026年1月現在) https://baike.baidu.com/item/%E7%B1%B3%E6%8B%89%E5%B1%B1%E9%9A%A7%E9%81%93/20180319 #18:『シナの書に「ヌマリー(鹿馬嶺)の山は高く、やや嶮しい。約四十支里に渉る。山頂に至るまで遭遇する氷雪の峻峰は心を寒からしめ、眼を曇らす。ために山頂に至るときは、あたかも平原を越えるが如き感がある・・・・・」とある。』 {西川} ◯編註 西川が記す「シナの書」というのは、「衛藏圖識」の(圖考上巻(程站))の箇所(衛藏圖識1792)と考えられる。ユック80 (2), p367には「衛藏圖識」から引用された西川の引用したものとほぼ同じ訳文:「この山はやや高く嶮しい。約四十里に渉る。山に至る迄に遭遇する氷雪峻峰は心を寒からしめ眼を曇らす。ために山に至る時は恰も平原を越ゆるが如き感がある」(原文---山高無險阻、約四十里、視前之氷雪峻嶒者、居然平易矣))が収録されていることから、西川はユックの翻訳本(日本語訳の原本は1939年刊)を参考にしたものと推測される。 + |
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| (4) 鹿馬嶺(ヌマリ)~ジャムダ |
(・・・)ヌマリ#19、ガム村#21経由、ラサを出て九日目にジャムダ(太昭)#23に到着した(現在中国共産政府治下、西康西蔵自動車道路#22がラサからジャムダ#23経由ポメ地区#26、昌都#76、康定#2へ通じている)。 (p194) |
ヌマリ#19 ガム#21 |
ジャムダチュー(昭太河)#20を過ぎヌマリー(鹿馬嶺)部落#19を出ると、すぐ灌木の鬱蒼とした山中に入る。右折左折、東に向かう迷路が長く続いていた。(・・・) (p280) 林を出ると眼下の渓流が再び姿を現わす。道は嶮しい坂となって、その渓谷に下る。渓谷は巨岩に覆われ、道はあたかも吊り橋のように、深い淵に臨む屏風のようにそそり立つ岸壁を縫っている。 (p281) 難所をきりぬけると、ジャムダ#23の部落が眼下に開けていた。 (p281) |
ジンダー#21 | ヌマリーの集落#19を出ると、鬱蒼とした山中に入った。 (p123) やがてそそりたつ岸壁と渓流を縫う険しい坂を登り下りすることになり、その難所を越えるとジャムダ#23という集落に出た。 (p124) |
#19:ヌマリ {木村} / 「ヌマリー(鹿馬嶺)部落」 {西川} / 「ヌマリーの集落」 {沢木} 鹿馬嶺 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Луммари [Bichurin1828m] Nimaring Giachug [RGS1884m2] Nimaring [Dutreuil de Rhins1889m] 鹿馬嶺 [西蔵全図04m] 鹿馬嶺𠹔 [鑪藏道里最新考07] Numaring [SOI14m] Numari [SOI-1/100-No.82-29m] 鹿馬嶺 [西藏地方詳圖39m] ニマリング [陸測-1/100-印東-3-42m] Numari [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Numari [USAF-1/200-CL305-51m] Нумари [USSR-1/20-H-46-21-86m] 鹿马岭 (Numari) [西蔵地名96, p283] 鹿马岭 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] ヌマリ [ウォード2000, p456, p518-519, p523] 罗马林 (工布江达県) [西藏自治区地図冊2024, p100-101]
◯編註 現在の罗马林 (工布江达県) と比定される。 #20:ジャムダチュー (昭太河) {西川} ◯編註 不明(ジャムダ河のことだろうか?)。 #21:ガム村 {木村} / ガム {木村一周図} // ジンダー {西川行程図} 順達 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Шумда [Bichurin1828m] Gam / Choumda [Dutreuil de Rhins1889m] 噶木 / 順達 [西蔵全図04m] 順達 [鑪藏道里最新考07] Gam Giachung [SOI14m] Tsen da [Pereira25m] Gam [SOI-1/100-No.82-29m] 噶木工楚 [西藏地方詳圖39m] ガム [陸測-1/100-印東-3-42m] Chinda [AMS-5304-1/150-X11-45m] Chinda [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Gam [USAF-1/200-CL305-51m] Чинда [USSR-1/20-H-46-15-77m] ガム [ウォード2000, p518-519] 金达鎮 / 嘎木 (工布江达県) [西藏自治区地図冊2024, p100-101]
◯編註 ジンダー (Chinda) とガム(Gam)は、ジャムダ河(尼洋曲)を挟んだほぼ両岸に位置する集落である。 #22:「西康西蔵自動車道路」{木村} ◯編註 現在では川蔵公路(南路)(旧称:康蔵公路)G318国道)(1954年開通)と呼ばれている。G318国道については下記URLに説明がある。(2026年1月現在) https://ja.wikipedia.org/wiki/G318%E5%9B%BD%E9%81%93 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] | |||||||||||||||
| (5) ジャムダ |
ジャムダ#23はお寺を中心に発達した小さな町で川の合流点にある。橋を渡るには税金を払わねばならない。橋を渡って下流へ行けばコンボ盆地#25経由ポメ地区#26、上流へ上る道は清朝時代から有名な北京・ラサを結ぶ駅伝道路、東チベットとラサを結ぶ主要なキャラバン公路である#27。峠は多いが川に全部橋がかかっている。この道以外は、峠が少なくても川に橋がかかっているところは少ない。 (p194-195) |
ジャムダ(太昭)#23 | ジャムダ#23はブラマプトラ河に注ぐジャムダ河#24の三角州の河畔に数十戸が密集している部落である。豊沃な農耕地を控え、交通の要地でもあるからであろう、宿場街の雰囲気を漂わせている。 この小さな街の関帝廟の門前で一夜を明かした翌朝、丸太の橋(有料でひとり三銭を徴収された)で渡河し、このジャムダ#23の街を後にする。そこで道は南と北に別れるのである。 (p281) |
ジャムダ (ジャムダー)#23 |
西川たちと若い夫婦は、そこにあった関帝廟の前で一夜を過ごすことにした。(・・・) 翌日、丸太でできた橋を渡り、ジャムダ河#24を越えた。(・・・) (p124) |
#23:ジャムダ(太昭) {木村} / ジャムダ(ジャムダー)、昭太 {西川} / ジャムダ {沢木} 公布扎穆達和屯 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 江達 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Гомбо цяпмдо [Bichurin1828m] Giamda [RGS1884m2] Giamda dzong (Tcham ta) 3320 [Dutreuil de Rhins1889m] 江達 [西蔵全図04m] 江達 [鑪藏道里最新考07] Giamda 10900 [SOI14m] Giamda [Pereira25m] Gyamda Dz 11650 [SOI-1/100-No.82-29m] 太昭縣 [西藏地方詳圖39m] ギャムダ(江達)[ユック80(2), p367] ギヤムダ 3322 [陸測-1/100-印東-3-42m] Giamda (Chiang-ta or T'ai-chao) [AMS-5304-1/150-X11-45m] Giamda Dzong 3551(11650) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Gyamda Dzong [USAF-1/200-CL305-51m] Джамда (Тайшао) [USSR-1/20-H-46-22-86m] 江達 (Gyamda) [西蔵地名96, p214-215] 太昭 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] ギャムダ [ウォード2000, p297, p450, p454, p518-519] 大昭 Taizhao [中村2016, p162-163] 江达 (工布江达県) [西藏自治区地図冊2024, p100-101]
◯編註 ジャムダ(江達、太昭)は、現在の工布江達(コンポチャムド)県政府所在地(工布江達鎮(果林卡))の北西約20kmに位置する。詳しくはこちらを参照のこと。 ちなみに、西川はジャムダを”昭太”と漢字表記している(発音から推測したのだろうか?)が、「太昭」が正しい表記である(ちなみに「太昭」という名前は、民国元年(1912年)にこの地に駐留した川辺経略使 尹昌衡(1884-1953) の字(あざな)「太昭」に由来するのだという(林芝地区志2006, p728、西藏自治区志城郷建設志2011, p80-81))。 #24:ジャムダ河、ジャマダー河 {西川} Kongbo Giamda Chu [RGS1884m2] Balong tchou [Dutreuil de Rhins1889m] 巴隆楚 [西蔵全図04m] 卡楚河 [鑪藏道里最新考07] Nyang (Giamda) [Pereira25m] Kam Chu [SOI-1/100-No.82-29m] Giamda Chu [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Nyang Chu [USAF-1/200-CL305-51m] Ньянг-Чу [USSR-1/20-H-46-22-86m] 尼洋曲 (Nyang Qu) [西蔵地名96, p345-346] 白曲 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] ギャムダ川 [ウォード2000, p293, p298] / ニャン・チュー川(ギャムダ川) [ウォード2000, p518-519] 尼洋曲 [西藏自治区地図冊2024, p100-101] ◯編註 現在は尼洋曲と呼ばれる。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B0%BC%E6%B4%8B%E6%B2%B3 #25:コンボ盆地 {木村} ◯編註 現在の林芝市巴宜区、工布江达县、米林县の尼洋河及びヤルツァンポ河流域付近。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%B8%83%E5%9C%B0%E5%8C%BA #26:ポメ地区 {木村} ◯編註 現在の林芝市波密県付近。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%AF%86%E5%8E%BF #27:「清朝時代から有名な北京・ラサを結ぶ駅伝道路、東チベットとラサを結ぶ主要なキャラバン公路である。」{木村} ◯編註 現在では、上記の旧来のキャラバン公路に代わって四川~コンポチャムド(終点はラサ)を結ぶルート(川蔵公路(南路)(旧称:康蔵公路)G318国道)(1954年開通)がメインルートになっている。 + |
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| (6) ジャムダ~ヌプカンラ |
ジャムダ#23から河床にそってやや西北へ川をさかのぼり、ラル寺#28経由トオラ峠#29(5800メートル)を越えた。谷間の小さな牧村コレプ#30を過ぎ、アツア湖#31、アツア村#32の背後の赤く焼けたような土の露出をしているアツアラ峠#34を越え、盆地にくだりラハリンゴー村#35でザンバを買う。再び谷に入る。ツアチュウカ#36は石ころばかりの谷、麓から雪に包まれたヌプカンラ峠#37(西雪峠、6000メートル)の山頂近くで吹雪にあい、数えきれないほどころぶ。寒さが強い。谷間は青々としている。(・・・) (p195) |
ラルゴンパ寺#28 トーラ峠#29 コレプ#30 アツアツオ湖#31 (*峠の表示のみ)#34 ラハーリンゴ#35 ツアチユウカ#36 ヌプカンラ(西雪峠)#37 |
私達ふたりは公路を北上する。彼ら三人は故郷のデルゲ#14めざして南へ下って行く。(・・・) (p282) 標高五千八百メートルのチュ峠#29、次にアツァ峠#34とペンダ峠#34、そして五千五百メートルのヌブ・カン峠#37(西の雪の峠)越えはまったく命がけで死ぬ思いだった。(・・・) (p283) |
ラル廟#28 チュ峠#29 (アツア湖)#31 アツァ廟(アッア廟)#32 ペンダ峠#34 サーリンゴー#35 ヌブ・カン峠(ヌプカン峠)#37 |
彼らは故郷に向かって南下し、西川と木村の二人はジャサク公路に従って北上した。 (p124) 次々と立ちはだかる屏風を連ねたかのような褶曲山脈の山塊を越えるため、ヒマラヤのザリーラ峠#33に匹敵する四千五百メートル級の峠をいくつも登ったり下ったりするのは、想像していた以上に苦しいものだった。 (・・・) とりわけ「西の雪山」の名があるヌブカンの峠#37を越えるのはつらかった。 (p125) |
#28:ラル寺 {木村} / ラルゴンパ寺 {木村一周図} / ラル廟 {西川行程図} Laru Giachug [RGS1884m2] Larou [Dutreuil de Rhins1889m] 拉魯 [西蔵全図04m] La-ru [Pereira25m] Laru 13000 [SOI-1/100-No.82-29m] ラル [陸測-1/100-印東-3-42m] Laru [AMS-5304-1/150-X11-45m] Laru 3962 (13000) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Лару [USSR-1/20-H-46-16-77m] ラル [ウォード2000, p297, p518-519, p520-521, p523] 拉鲁寺 [西藏自治区地図冊2024, p100-101]
◯編註 現在の拉鲁寺 (工布江达県) と比定される。 + #29:トオラ峠 {木村} / トーラ峠 {木村一周図} / チュ峠 {西川} 綽拉岡阡達巴漢 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 卓喇山 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Гора Чулакань цьзяньлаか?(編者推測)[Bichurin1828m] Tola La 17350 [RGS1884m2] MTS. CHOULA GANG DZIAN / Mt. Ping ta la ou Chou la 5289 [Dutreuil de Rhins1889m] 朱拉岡江山 / 平坦拉山 [西蔵全図04m] 瓦孜山 [鑪藏道里最新考07] To P. [SOI14m] Tro La [Pereira25m] Tro P 17100 [SOI-1/100-No.82-29m] 多拉 [西藏地方詳圖39m] Tro Pass 5212 [AMS-5304-1/150-X11-45m] Tro Pass 5212 (17100) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] TRO PASS 17100 [USAF-1/200-CL305-51m] пер. Чу 5332 [USSR-1/20-H-46-16-77m] トロ・ラ (17650 ft) [ウォード2000, p296, p452, p518-519, p520-521] 5382 [中村2016, p162-163] 楚拉(工布江達県, 嘉黎県)[西藏自治区行政村名及寺院山川名2016, p375, p436, p437, p449]
◯編註 現在の楚拉 (工布江達県, 嘉黎県)と比定される。この峠については、資料によってさまざな名称がつけられている(詳しくはこちらを参照のこと)。 #30:コレプ {木村} 山湾 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Колебъ [Bichurin1828m] Koleb (Chan wan) [Dutreuil de Rhins1889m] 山灣 [西蔵全図04m] 山灣 [鑪藏道里最新考07] Gule [SOI-1/100-No.82-29m] Gule [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Gule [USAF-1/200-CL305-51m] コレプ [ウォード2000, p295] 果列 (嘉黎県) [西藏自治区地図冊2024, p114-115]
◯編註 現在の果列 (嘉黎県) と比定される。 + #31:アツア湖 {木村} / アツアツオ湖 {木村一周図} / アツア湖 {西川行程図} 扎穆納裕穆楚淖爾 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] Оз. Цьзямна-юмцо [Bichurin1828m] Archa Cho [RGS1884m2] L. Djamna 4475 [Dutreuil de Rhins1889m] 扎穆納裕池 [西蔵全図04m] 扎穆納裕池 [鑪藏道里最新考07] Archa L. [SOI14m] ADZA TSO [Pereira25m] Atsa Tso 14740 [SOI-1/100-No.82-29m] 阿察湖 [西藏地方詳圖39m] アルチヤ湖 4475 [陸測-1/100-印東-3-42m] Lake Atsa 4493 [AMS-5304-1/150-X11-45m] Atsa Tso [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Atsa Tso [USAF-1/200-CL305-51m] оз. Аца [USSR-1/20-H-46-16-77m] 阿扎錯 (Arza Co) [西蔵地名96, p6-7] 阿扎錯 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] アトサ湖(ツォ)(14938 ft) [ウォード2000, p292-293, p518-519, p520-521] 阿扎錯 Atsa Tso [中村2016, p156-157]
◯編註 現在の阿扎錯(嘉黎県)と比定される。 #32:アツア村 {木村} / アツァ廟 (アッア廟) {西川行程図} 阿咱 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Ацза [Bichurin1828m] Adza [Dutreuil de Rhins1889m] 阿咱 [西蔵全図04m] 阿咱 [鑪藏道里最新考07] Archa Giachung [SOI14m] Atsa G [SOI-1/100-No.82-29m] 阿咱 [西藏地方詳圖39m] アヅァ(阿咱)[ユック80(2), p375] アルチヤ [陸測-1/100-印東-3-42m] Archa (Atsa) [AMS-5304-1/150-X11-45m] Atsa Gompa [AMS-1301-1/100-NH46-47m Atsa Gompa [USAF-1/200-CL305-51m] Аца / Ане-Гомпа [USSR-1/20-H-46-16-77m] 阿扎 (Arza) [西蔵地名96, p6] 阿扎 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] アトサ [ウォード2000, p293] アトサ僧院(ゴンパ) [ウォード2000, p292-293, p520-521] 嘉黎 Lhari [中村2016, p156-157] 阿扎鎮 (嘉黎県) [西藏自治区地図冊2024, p114-115]
◯編註 アツア村やアツァ廟は、アツア湖の周辺に位置する。アツア村は現在では嘉黎県の県政府所在地の阿扎鎮となっている。詳しくは下記URLを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%89%8E%E9%95%87 #33:「ヒマラヤのザリーラ峠」 {沢木} ◯編註 現在のインド・中国の国境上のJelep La(4390m)(下記URLを参照。2026年1月現在)。木村・西川がザリーラ峠を越えた時の様子は、木村82, p150-164、西川90b, p498-501、沢木2025, p36-48に記されている。 https://en.wikipedia.org/wiki/Jelep_La #34:アツアラ峠 {木村} / (*峠の表示のみ) {木村一周図} / アツァ峠、ペンダ峠 {西川} / ペンダ峠 {西川行程図} 潘達拉岡充達巴漢 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 大山 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Гора Пьхинь далаか?(編者推測)[Bichurin1828m] Archa La [RGS1884m2] Col [Dutreuil de Rhins1889m] 拉里山口 [西蔵全図04m] 拉里山 [鑪藏道里最新考07] Archa P. [SOI14m] Banda P 17910 [SOI-1/100-No.82-29m] (峠の表示のみ) [西藏地方詳圖39m] Banda Pass [AMS-5304-1/150-X11-45m] Banda P [AMS-1301-1/100-NH46-47m] BANDA PASS [USAF-1/200-CL305-51m] пер. Банда 5330 [USSR-1/20-H-46-16-77m] 邊達拉 (Benda La) [西蔵地名96, p43] バンダ・ラ [ウォード2000, p293, p518-519, p520-521] Banda La 5330 [中村2016, p156-157]
◯編註 アツアラ峠は「バンダ・ラ」、「拉里大山」等とも記され、アツア(阿扎)とラハリンゴー(拉里)の間にそびえる古くから利用されてきた峠。この峠にはさまざな名称がある(こちらを参照のこと)。なお、西川がアツァ峠とペンダ峠とを別の峠と記しているのは誤記(記憶違い?)と考えられる。 + #35:ラハリンゴー村 {木村} / ラハーリンゴ {木村一周図} / サーリンゴー {西川行程図} 拉里珠克特亨 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 拉里 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Хлари [Bichurin1828m] Lharugo Giachug [RGS1884m2] Lhari 4173 [Dutreuil de Rhins1889m] 拉里 [西蔵全図04m] 拉里 [鑪藏道里最新考07] Lharugo Giachung [SOI14m] Lhari-go [Pereira25m] Lharugo 14150 [SOI-1/100-No.82-29m] 嘉黎縣 [西藏地方詳圖39m] ラーリ 4173 [陸測-1/100-印東-3-42m] Lkharugo 4313 [AMS-5304-1/150-X11-45m] Lhariguo 4313 (14150) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Lharugo [USAF-1/200-CL305-51m] ЛХАРУГО (Цзали) 4311 [USSR-1/20-H-46-10-77m] ラリ(拉里)[ユック80 (2), p379] 拉仁郭 (Lharingo) [西蔵地名96, p255] 嘉黎 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] ラリゴ [ウォード2000, p293] 嘉黎 Old Lhari [中村2016, p156-157] 嘉黎鎮 拉日果 (嘉黎県) [西藏自治区地図冊2024, p114-115]
◯編註 現在の嘉黎鎮 拉日果 (嘉黎県) と比定される。詳しくは下記Wikipedia及びこちらを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%98%89%E9%BB%8E%E9%95%87 + #36:ツアチユウカ {木村} 擦竹卡 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Цяжука [Bichurin1828m] Chachukha Giachug [RGS1884m2] Tsa tchou ka [Dutreuil de Rhins1889m] 擦竹卡 [西蔵全図04m] 擦竹卡 [鑪藏道里最新考07] Chachukha [SOI14m] Sachuka 14800 [SOI-1/100-No.82-29m] 擦竹卡 [西藏地方詳圖39m] チヤーチユカー [陸測-1/100-印東-3-42m] Sachuka [AMS-5304-1/150-X11-45m] Sachuka [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Sachuka [USAF-1/200-CL305-51m] Сачука [USSR-1/20-H-46-10-77m] ツァチュカ(擦竹卡)[ユック80 (2), p389] 擦曲卡 (Caquka) [西蔵地名96, p54] 擦曲卡 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 擦秋卡 (嘉黎県) [西藏自治区地図冊2024, p114-115]
◯編註 現在の擦秋卡 (嘉黎県) と比定される。 + #37:ヌプカンラ峠(西雪峠) {木村} / ヌブ・カン峠(西の雪の峠) {西川} / ヌブ・カン峠(ヌプカン峠){西川行程図} / 「ヌブカンの峠」 {沢木} 努布公拉岡里達巴漢 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 大山 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Горы Нубъконла [Bichurin1828m] Nub Gang La [RGS1884m2] Noub Kang la [Dutreuil de Rhins1889m] Nub Gang La [Bower1893m] 魯公拉山口 [西蔵全図04m] 魯工拉山 [鑪藏道里最新考07] Nub-kong P 17940 [SOI14m] Nurgung La [Pereira25m] Nupkang P 16800 [SOI-1/100-No.82-29m] 努布工 [西藏地方詳圖39m] 5468 [陸測-1/100-印東-3-42m] Nupkegn Pass 5120 [AMS-5304-1/150-X11-45m] Nupkang P 5120 (16800) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] NUPKANG PASS [USAF-1/200-CL305-51m] пер. Сисюешань (Нугунг) 5581 [USSR-1/20-H-46-10-77m] シャルクゥラ(魯工拉)[ユック80 (2), p389] 魯貢拉 (Nub Kangla) [西蔵地名96, p284] 努岗卜拉 (嘉黎県) [西藏自治区地図冊2024, p114-115]
◯編註 現在の努岗卜拉 (嘉黎県) と比定される。詳しくはこちらを参照のこと。 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] | |||||||||||||||
| (7) ヌプカンラ~アランド |
(・・・)森林の山腹を上下しながら急な谷を二日間下って、二つの川が合流して南へ流れ去る地点へ出る。東から来た川にそって少し上るとアランド村#40である。(・・・) (p195) |
アランド#40 | やっと黒色の渓谷が青々とした灌木の渓谷に変わった頃、間もなくこんな所にも・・・・・・と思われる身動きもできない狭い峡谷に、石造りの小さな家が四、五軒ならんでいた。アラ・ドト#38という部落であった。(・・・) (p283) 部落を出ると道は凄かった。昔は多くの人々の生命を奪ったことであろう。苔の生えたつるつるする岩の上、絶壁にかけられた丸木の吊り橋を渡り、常に全神経を足もとに集中し手に汗を握っていた。しばらくして道は北方の山に登って、渓谷を離れて行き、松葉で敷きつめられた松林の中に入った。(・・・) (p283) 山腹に出ると夜が明けたように明るくなり、豊草が黄金に燃えるなだらかな丘、雑木林、樅林の中を東に進む。(・・・)しばらく進んで一丘陵を登ると、崩れ落ちた土壁、高い望楼、倒れかかった木の門があった。かつてシナ軍の駐屯していた関門ででもあったのだろう、と私達の足を留めさせるのであった。 丘陵を越えるとしだいに下り坂となり、灌木の繁みの中で、灰褐色の大きな野生の鶏七、八羽が、突然の人間の出現にも恐れずコッコッコッと楽しそうに遊んでいた。 (p284) 丘陵を下るにつれ、下って来た渓谷が再び姿を現わし、「アラ・ザコン」#39という部落に到着した。三十戸余りの農家であった。 (p285) 密林を抜けて道は北方からの渓流に沿って上り、間もなく「アランドー」#40という部落に到着した。三十余戸の部落は見事な林に覆われた山々に囲まれ、土地はよく肥え、畑にはヤク、山羊が遊び、鶏も姿を見せ、家々は木造建てで、各所には雑木で、棚を造った家畜小屋等も見られ、薪は山と積まれて平和郷そのものであった。 (p287) |
アラ・ドト(アラドト)#38 アラ・ザコン(アラザコン)#39 アランドー(アランド)#40 |
それでも、ようやく峠の最高地点を越え、灌木の生い茂る渓谷に入ったときには、危地を脱することができた、と息をついた。 渓谷の流れに沿って歩き、野宿をする。(・・・) そうした日々を続けているうちに、石だらけだったところから草木の生えている地帯に足を踏み入れることができた。 そこに、石造りの小さな家が四、五軒並んでいる集落#38があった。 (p125) 翌朝、その家を出てからしばらくは、苔の生えたつるつるの岩の上を歩いたり、絶壁にかけられた吊り橋を渡ったりと、危険なところを抜けていかなくてはならなかった。それでも、山腹に出ると、西川の故郷である日本の中国地方の山のような穏やかな印象を受ける地帯に入ることができた。 丘陵を下るにつれて、道はふたたび渓谷に入っていくようになったが、そこに二、三十軒ほどの集落#39が姿を現した。 (p126) |
#38:アラ・ドト {西川} / アラ・ドト (アラドト){西川行程図} / 「石造りの小さな家が四、五軒並んでいる集落」 {沢木} 多洞 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Додонъ [Bichurin1828m] Dodong [Dutreuil de Rhins1889m] 多洞 [西蔵全図04m] 多洞塘 [鑪藏道里最新考07] Aladoto [SOI-1/100-No.82-29m] アラドチヤグ [陸測-1/100-印東-3-42m] Aladoto [AMS-5304-1/150-X11-45m] Aladoto [USAF-1/200-CL305-51m] Додунг 4528 [USSR-1/20-H-46-10-77m] 夺突 (边坝県) [西藏自治区地図冊2024, p94-95]
◯編註 現在の夺突 (边坝県) と比定される。 #39:アラ・ザコン {西川} / アラ・ザコン (アラザコン) {西川行程図 / 「二、三十軒ほどの集落」 {沢木} 甲貢 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Цьзягунъ [Bichurin1828m] Alachiago [RGS1884m2] Alachiago (Kiagong) [Dutreuil de Rhins1889m] 甲貢 [西蔵全図04m] 甲貢 [鑪藏道里最新考07] Alachiago [SOI14m] Jagung [SOI-1/100-No.82-29m] アラチヤゴ [陸測-1/100-印東-3-42m] Jagung [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Jagung [USAF-1/200-CL305-51m] Джагунг 4044 [USSR-1/20-H-46-10-77m] 加貢 Jiakong [中村2016, p156-157] 加贡乡 (边坝県) [西藏自治区地図冊2024, p94-95]
◯編註 現在の加贡乡 (边坝県) と比定される。 + #40:アランド {木村} / アランドー {西川} 阿蘭多 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Манидинъ [Bichurin1828m] Alado Giachug [RGS1884m2] Alanto (Mani ting) 3700 [Dutreuil de Rhins1889m] 阿蘭多 [西蔵全図04m] 阿蘭多 [鑪藏道里最新考07] Alado [SOI14m] Alamdo [Pereira25m] Alado [SOI-1/100-No.82-29m] アラード [陸測-1/100-印東-3-42m] Alado [AMS-5304-1/150-X11-45m] Alado [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Alado [USAF-1/200-CL305-51m] Аламдо (Сячу) 3690 [USSR-1/20-H-46-17-77m] アランド(阿蘭多)[ユック80 (2), p391] 阿兰多 (Alando ) [西蔵地名96, p3] 阿蘭多 Alando [中村2016, p156-157] 阿兰多 (边坝県) [西藏自治区地図冊2024, p94-95]
◯編註 現在の阿兰多 (边坝県) と比定される。 |
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| (8) アランド~シャルカンラ |
ナムジェゴン村#43から再び上り、シャルカンラ峠#45(東雪峠、約5700メートル)の深い雪の中をすべったりころんだりしながら進む。(・・・) (p196) |
シャルカンダラ(東雪峠)#45 | アランドー#40の部落を後にすると、道は渓流を遡って深い渓谷に入り、巨岩を縫い、美しい清流には臥竜のような巨木が河面を蔽ってかげを投じ、山紫水明の絶景を展開していた。シナ人はこの河を「金江」と呼んでいる。#41清流は沙金を流しているからだそうである。ふたりはこの渓谷でジュマー掘りで長いこと時間を費やした。しばらくすると渓谷を上っていた路は左手の急斜面の山を上り始めた。渓谷が二つの高さ四、五十メートルもある屏風のような巨岩が接吻するように相迫り、通行を拒んでいたからである。匍うようにして山を登ると、舗装された黄土の路が山腹を巡っていた。(・・・)路は山鼻を回ると急斜面となって下り始める。傾斜面は段々式の畑となって、二、三の農家が見られる。その夜は山腹の畑の中で野宿する。 翌日、山を降って高い岩山に包まれた盆地に出る。上って来た渓流も谷川となって姿を現わし、やせた畑の中を進み、二十戸ばかりの部落#42に到着する。谷川には水車小屋が見られ、ザンバー補給のため、水車小屋の側で一夜を明かす。翌日、さらに谷川に沿って東に向かうと間もなく路は谷川を捨て北側の山を登って、広々とした台地に出て、「ナムチンゴン」#43という、二十戸余りの部落に到着する。(・・・) (p289) ナムチンゴン#43を後にすると、路は台地を下って、再び谷側に出て東北に向け深い渓谷に入る。山は岩と黄土の禿山と変わり、山腹を上ったり下ったり渓谷を上って行く。しばらくすると渓谷は東と東南の二つに分かれ、路もまたニ路に分かれていたので、はたと困ってしまった。尋ねようにも人影もなければ家もなく、仕方なく北東への路を進む。進むにつれ路は黄土の小山が起伏する山中に入り、二軒家の部落の前に出た。(・・・)遊牧民の部落である。路はこの部落に通ずる路でターチェンロー(打箭炉)#2への公路は東南に向かう峡谷を上って行かなければならなかった。(・・・) (p290-291) 翌日起伏する黄土の小山を越えて公路に出る。東南に向かう渓谷を登りつめると、眼前に雪山が立ち塞がっていた。海抜六千メートルの「ネンチェンダンラ」(寧静山脈)の山嶺#44である。そして道はこの雪山を越していた。峠は「シャル・ガン峠」#45すなわち「東の雪の峠」と呼ばれ、前に越えてきた、「ヌブ・カン峠」#37すなわち「西の雪の峠」に対して命名されたものである。シナ名では「タングー」(丹連塘)と呼ばれている。シナの旅行記に、 「タングーの山は極めて峻嶮にして登行困難である。夏は泥濘足を奪い、冬は氷雪に覆われる。旅人は杖にすがり、ひとりずつ、魚の如くに続いてこれを越える。ターチェンロー-ラサ間の全工程中、最難所である」 と記されている。#46 確かに難所である。灰色の冬空には太陽も姿を見せていなかった。時折猛烈な風が雪を八方へ吹き飛ばし、あたかも全山が崩れるのではないかと思われるほどだった。ひとりずつ、魚のように続いて越えるという道は、腰を没する雪で埋もれていた。ただ、窪地の連続が道であった。 (p291) (・・・)悪戦苦闘の末、峠に辿りついた。足下は千仞の谷、否、魔の谷、いや奈落の底とでも形容しようか。(・・・) (p292) それからの道も魔の道といおうか、地獄道とでもいおうか、白雪に覆われた絶壁の山腹を縫う道は辛うじてひとりが通れる蟻の道であった。しかも凍てついた氷の道ときてるのだからたまらない。全身に冷汗が流れ、生死の境を彷徨すること数時間後、やっとのことで、安全地帯ともいうべき第二の峠にたどり着いた。 (p292) |
ナムチンゴン#43 シャル・ガン峠 (シヤルカン峠)#45 |
一軒の家で、近くの渓谷に洞窟があると教えられ、仕方なくそこに泊まることにした。 洞窟での一夜が明け、渓流に沿って続いている道の登り下りをしているうちに、別の方角から流れてきた渓流との合流地点に白砂の三角州が現れ、森林の緑を背景に青と白を加えた三色による一幅の絵のような絶景を眼にすることができた。しかし、そこで一休みしてからまた歩き出すと、今度は血の色をした片岩が敷き詰められ、まるで賽の河原のような不気味なところを歩かなければならなくなった。 その夜も野宿をし、朝、出発すると、ふたたび森林地帯に出た。(p127) ところが、森林地帯を抜け出る頃から木村の顔面が蒼白になりはじめた。昼過ぎにようやくひとつの集落に着いたので、早すぎるが木村のために宿を求めることにした。(・・・) 集落を後にすると、美しい清流に出会う。 渓谷に沿って山を登り、下りしながら、山腹の畑で野宿したり、水車小屋の側で一夜を明かしたりということを続けているうちに、ナムチンゴン#43という名の二十戸ほどの集落に着いた。 (p128) ナムチンゴン#43を出ると、ふたたび深い渓谷を歩くことになった。 二日ほど野宿を続け、渓谷を登りつめると、眼の前にニェンチェンタンラ、漢名で念青唐古拉と呼ばれる山嶺#44が立ち塞がっていた。ジャサク公路はそこにある峠を越えていかなくてはならない。峠のある山はシャルカン#45、「東の雪山」という名で、すでに越えてきたヌブカン#37、「西の雪山」と対をなす難所であるらしい。 道には雪が積もり、猛烈な風が雪を吹き飛ばしている。腰まである雪を腕で掻き分けるようにして歩かなくてはならない。二人はほとんど四つん這いになりながら第一の峠をよじ登った。 ようやく峠の頂上に辿り着いたが、谷を隔てた前方にはノコギリの歯のような山々がまだそびえている。 峠を下るには垂直に切られた絶壁の横についている細い道しかない。しかもその道は凍りついている。 そこを下り、なんとか第二の峠の最高地点に辿り着いたときには感極まった。 生死は紙一重だった。その峠には無数の旅人が祀ったオボがあり、西川と木村もそこに小石を積んで生きて越えられたことに感謝した。 (p129-130) |
#41:「シナ人はこの河を「金江」と呼んでいる。」{西川} Sya Chu [AMS-1301-1/100-NH46-47m] 金岭 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] ◯編註 「西蔵自治区地図冊」や中村2016, p174-175ではこの河沿いに金嶺郷 (Jinglingxiang)の集落が表記されている。 #42:「二十戸ばかりの部落」{西川} ◯編註 不明。 + #43:ナムジェゴン村 {木村} / ナムチンゴン {西川} / ナムチンゴン {沢木} 納穆節岡珠克特亨 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 郎吉宗 一名浪金溝 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Намць зъганъ [Bichurin1828m] Lang ki tsong (Kin keou ou nam dzegan) [Dutreuil de Rhins1889m] 郎金溝 [西蔵全図04m] 郎吉宗 [鑪藏道里最新考07] Namgialgon [SOI14m] Nam-je-garm [Pereira25m] Namgye G [SOI-1/100-No.82-29m] ナムギヤルゴン [陸測-1/100-印東-3-42m] Namgialgon [AMS-5304-1/150-X11-45m] Namgye G [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Namgye Gompa (monastery) [USAF-1/200-CL305-51m] Намдже-Гомпа 4144 [USSR-1/20-H-46-11-77m] ランチツァン(郎吉宗)[ユック 80 (2), p393] 郎吉貢 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 郎杰贡 (边坝県) [西藏自治区地図冊2024, p94-95]
◯編註 現在の郎杰贡 (边坝県) と比定される。 #44:『海抜六千メートルの「ネンチェンダンラ」(寧静山脈)の山嶺』 {西川} / 「ニェンチェンタンラ、漢名で念青唐古拉と呼ばれる山嶺」 {沢木} NYENCHENTANGLHA RANGE [AMS-1301-1/100-NH46-47m] ◯編註 現在では念青唐古拉山脈と表記される。中村保「ヒマラヤの東 山岳地図帳」には念青唐古拉山脈等の詳細な山岳地図が収録されている(中村2016)。 + #45:シャルカンラ峠(東雪峠) {木村} / シャルカンダラ(東雪峠) {木村一周図} / シャル・ガン峠 (シャルカン峠) {西川} / シャルカン「東の雪山」 {沢木} 沙爾公拉岡里達巴漢 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 魯貢拉山 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Хреб. Шаръ конла ганри [Bichurin1828m] Char Kong la 5500 [Dutreuil de Rhins1889m] Shiar Gang La [Bower1893m] 魯貢拉山 [西蔵全図04m] 丹達山 [鑪藏道里最新考07] Shiar Gang P [SOI14m] Shiargung La [Pereira25m] Shargung P 16530 [SOI-1/100-No.82-29m] Sharkong La 16530 [Kaulback38m] シヤールガーング峠 [陸測-1/100-印東-3-42m] Shiar-gang Pass 4038 [AMS-5304-1/150-X11-45m] Shargung Pass 5038 (16530) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] SHARGUNG PASS 16530 [USAF-1/200-CL305-51m] пер. Дунсюешань(Шаргунг) 5580 [USSR-1/20-H-46-11-77m] 「タンダ(丹達)の山」[ユック80 (2), p394] 夏貢拉 (Xar Kangla) 5298m [西蔵地名96, p506] 夏貢拉 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] Shiargung La 5260 [中村2016, p174-175]
◯編註 現在の夏貢拉と比定される。詳しくはこちらを参照のこと。 ちなみに、草卡鎮‐金嶺郷間を結ぶ夏贡拉山隧道(全長:4392m)が2024年9月に開通している。詳しくは下記URLを参照のこと。(2026年1月現在) https://baike.baidu.com/item/%E5%A4%8F%E8%B4%A1%E6%8B%89%E5%B1%B1%E9%9A%A7%E9%81%93/55835997 #46:『シナ名では「タングー」(丹連塘)と呼ばれている。シナの旅行記に、 「タングーの山は極めて峻嶮にして登行困難である。夏は泥濘足を奪い、冬は氷雪に覆われる。旅人は杖にすがり、ひとりずつ、魚の如くに続いてこれを越える。ターチェンロー-ラサ間の全工程中、最難所である」 と記されている。』 {西川} ◯編註 西川が記す「シナの旅行記」というのは「衛藏圖識」(圖考上巻(程站))(衛藏圖識1792)と考えられる。ユック80 (2), p395にも「衛藏圖識」から引用されたほぼ同じ訳文「タンダの山は極めて峻嶮にして登行困難である。夏は泥濘足を奪ひ、冬は氷雪に覆はれる。旅人は杖にすがり、一人づつ、魚の如くに續いてこれを越える。拉薩に至る全工程中、最難所である」(原文---峭壁摩空、蜿蜒而上、夏則泥滑難行、冬春冰雪成城、一槽偪仄、行人柱杖魚貫而進、此赴藏第一險阻也、)がみられる。 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] + | |||||||||||||||
| (9) シャルカンラ~ビンバ・ゾン |
シャルカンラ峠#45から下る谷を出ると、農耕地ビンバ・ゾン#50につく。(・・・)このあたりの山は森林におおわれて美しい。(・・・) (p196) |
バルゴゴムバー#47 (*峠の表示のみ)#49 ベムバゾン#50 |
峠の東側は間もなく雪は姿を消し、片岩の裸山は急傾斜となり、路らしい路もなく、右折左折しながら下って行かねばならなかった。またどこまで、どれほど下れば麓に出られるかと思うほど長い下りであった。その夜、九死に一生を得てくたくたに疲れ切ったふたりを迎えてくれたのは、五合目辺りの山腹に姿を見せていた三戸の遊牧民の部落だった。 翌日、さらに山を下りようやくにして山麓に出ると、「タンダ」という、二十余戸の石肌むき出しの部落#47が渓谷に密集していた。部落前には東南方から北に向かう谷川が清流を見せていた。(・・・)シャル・ガン峠#45越えはラサ方面よりチャンドウ#76方面からの方が長くかつ難路である。この日はわずかばかりの行程ではあったが、シャル・ガン峠#45越えの疲労が、ふたりを河畔の岩間に野宿させた。タンダ部落#47を後にする。河を渡って峡谷を東に進む。谷間は黄土の畑となり、しばらく進むと北方の丘陵上に、大きなラマ廟が古城を偲ばせていた。路はこの辺りから峡谷を上って広い台地に出る。黄土と石礫、そして乾燥し切った台地は荒涼を極めていた。小さなラマ廟と十数戸の貧弱な農家が現われ、「ウチンダンダ」#48という半農半牧の部落に到着する。村はずれには北流する谷川が現われ、河畔に二十数本の落葉樹の大樹が、ぽつんと取り残されたように林となっていた。その夜は林の中で野宿する。 翌日東に向かう。「ビンパーゾン」#50という、役所のある七、八十戸が密集し、小さなラマ廟もあり、一円の中心地となっているが、店は一軒もない田舎街である。一農家に宿を求める。 (p293-294) |
ウチンダンダ#48 ビンパーゾン (ピンパゾン)#50 |
やがて雪が消えている地帯に入っていった。 そこからは小さな集落で宿を求めたり、河畔の岩陰や落葉樹の林の中で野宿をしたりする日々が続いた。 (p130) |
#47:バルゴゴムバー {木村一周図} / 『「タンダ」という、二十余戸の石肌むき出しの部落』、「タンダ部落」 {西川} 丹達 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Таньда [Bichurin1828m] Bargo Gomba [RGS1884m2] Tanda [Dutreuil de Rhins1889m] 丹達 [西蔵全図04m] 丹達塘 [鑪藏道里最新考07] Bargo Gomba [Pereira25m] ハールゴンパ [陸測-1/100-印東-3-42m] Barung [AMS-5304-1/150-X11-45m] Тенда or Пашунг-Гомпа [USSR-1/20-H-46-11-77m] 「タンダ(丹達)の町」[ユック80 (2), p400] 丹达 (Damda)(「丹、为马意;达、指山谷口、河的下游。丹达、在此实指马溪口。」) [西蔵地名96, p104] 丹达 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 丹达 (边坝県) [西藏自治区地図冊2024, p94-95]
◯編註 現在の丹达 (边坝県) と比定される。 #48:ウチンダンダ {西川} Urjien Tanda [SOI-1/100-No.82-29m] Urjien Tanda [USAF-1/200-CL305-51m] 江 (边坝県) か? [西藏自治区地図冊2024, p94-95] (編者推測) ◯編註 西川の記述(「部落前には東南方から北に向かう谷川が清流を見せていた。」)から、現在の麦曲の川辺にある江村 (边坝県) 付近と推測される。西川は、タンダ(丹達)とウチンダンダを異なる集落としているが、この地域を表記する地図の多くは両者のいずれか1つ(大半は丹達)を標記している。 #49:木村の著書に収録された「東チベット一周図」(木村58, p172、木村82, p193)ではタンダ-ビンバ・ゾン間に峠の表示があるが、Google Map等の地図を確認する限りでは、当該地域に峠はみられない(ちなみに、西川の行程図(西川68, p41、西川91, p268)では当該地域に峠の表示はない)。 + #50:ビンバ・ゾン {木村} / ベムバゾン {木村一周図} / ビンパーゾン (ピンパゾン) {西川} 達爾宗和屯 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 邊埧 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Бянбаръ [Bichurin1828m] Pemba Gomba [RGS1884m2] Biambar (Pien pa) [Dutreuil de Rhins1889m] 達隆宗 即 邊埧 (編註:南方に達尓宗の表記あり)[西蔵全図04m] 達隆宗即邊壩 [鑪藏道里最新考07] Pem-bar [Pereira25m] Pemba G [SOI-1/100-No.82-29m] Pembar Gompa 13490 [Kaulback38m] ピヤンパ(邊壩)[ユック80(2), p400] ペンパゴンバ [陸測-1/100-印東-3-42m] Pemba-gompa [AMS-5304-1/150-X11-45m] Pembar G [AMS-1301-1/100-NH46-47m] ПЕМБА [USSR-1/20-H-46-11-77m] 辺覇 (Banbar) [西蔵地名96, p42] 辺埧 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 边坝 Old Pelbar [中村2016, p174-175] 边坝鎮 夏林 (边坝県) [西藏自治区地図冊2024, p94-95]
◯編註 現在の边坝鎮 夏林 (边坝県) と比定される。詳しくはこちらを参照のこと。 |
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| (10) ビンバ・ゾン~サ・イ・サンバ |
4300メートルくらいの峠を三つ#51越え、谷間の盆地ショバンドオ#54という大きな村につく。(・・・) (p196) 松林と岩山の峠#57を越えロー・ゾン村#58につく。ここもかなり大きな農村で、貿易運送の中継所となっている。南へ広い平野が開けてインドへの道が通じているという。ここではマキが高く、お茶もろくろくわかさず、早々に立ち去った。 また急峻な峠#59を越えると川がウネウネと流れているのが見える。河畔にある村がサ・イ・サンカ村#60で、この川がサルウィン川#61である。チベット人はナク・チュウ川(黒い川)#61と呼ぶ。蒙古からチベットへ来る途中で、私はこの川の上流のまだチョロチョロ流れているところを横切ったことがある。ここでは幅二十メートルくらいの急流になっている。 この川に木造の橋がかかっていてその橋の村の側に扉がついており、夜間橋は渡れないようになっている。この橋をサ・イ・サンバ#60といい、ここでは渡り賃をとられた。(・・・) (p196-197) |
オクドウイラ峠#53 シヨバンド#54 (*峠の表示のみ)#57 ローゾン#58 サルウイン川#61 サ・イ・サンバ#60 |
翌日、ビンパーゾン#50を出発し、サジ廟という小さな廟と七、八十戸の石造りの家々の並ぶ部落#52にたどり着いた。 一夜の宿を求めて廟を訪れ、宿を借りる。(・・・) (p294) ラサとチャンドウ(昌都)#77間最大の街ショウバンドウ#54を過ぎ、広々した盆地を過ぎて山鼻を巡り、谷川のほとり#55で野宿する。(・・・) (p297) [チベットの霊峰ツァーリイの山について解説#56] (p299-301) |
サジ廟#52 ショウバンドウ (シヨーバンド)#54 ソーゾン#58 サイサンバー#60 |
ある日、七、八十戸の家が建つ集落に辿り着いた。すると、そこには小さいながらラマ廟#52があり、宿を求めることにした。 (p130) ラサとチャムド#76間の最大の街であるショウバンドウ#54を過ぎ、谷川のほとり#55で野宿をしていた夜のことだった。 (p131) |
#51:「4300メートルくらいの峠を三つ越え、・・・」{木村} пер. Пуде 4560 [USSR-1/20-H-46-11-77m] пер. Барйсемгонг 4980 [USSR-1/20-H-46-12-77m] пер.Джа 4840 [USSR-1/20-H-46-12-77m] пер. Уде 4660 [USSR-1/20-H-46-12-77m] ◯編註 20万分の1 旧ソ連参謀本部地形図 [USSR-1/20-H-46-11-77m] でビンパ・ゾン~ショバンドオ間を調べると、上記の4つの峠が表記されている。木村が記す3つの峠はこれらのいずれかと推測される。 #52:「サジ廟という小さな廟と七、八十戸の石造りの家々の並ぶ部落」 {西川} / サジ廟 {西川行程図} / 「小さいながらラマ廟があり・・・」{沢木} 拉雜珠克特亨 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 拉子 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Хлацзэ [Bichurin1828m] Lhadze [Dutreuil de Rhins1889m] 拉子 [西蔵全図04m] 拉子 [鑪藏道里最新考07] Lha-tse [Pereira25m] Lhadse 12350 [SOI-1/100-No.82-29m] Lhatse 13520 [Kaulback38m] ラヅ(拉子)[ユック80(2), p401] Нацзы [USSR-1/20-H-46-12-77m] 拉孜 (Lhaze) [西蔵地名96, p261] 拉孜 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 拉孜 Lhatsa 4135 [中村2016, p174-175] 拉孜乡 (边坝県) [西藏自治区地図冊2024, p94-95]
◯編註 現在の拉孜乡 (边坝県) と比定される。 #53:オクドウイラ峠 {木村一周図} 烏特拉達巴漢 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 巴喇 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Гора Чжакла [Bichurin1828m] Ba la [Dutreuil de Rhins1889m] 己喇山口 [西蔵全図04m] 吾抵拉山 [鑪藏道里最新考07] Ok-de P. [SOI14m] Ukde P 13200 [SOI-1/100-No.82-29m] Ode La 14744 [Kaulback38m] Ok-De Pass [AMS-5304-1/150-X11-45m] Ode P [AMS-1301-1/100-NH46-47m] UKDE PASS [USAF-1/200-CL305-51m] пер. Уде 4660 [USSR-1/20-H-46-12-77m] 达翁拉 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 4660 [中村2016, p174-175] 达瓮拉山 [腾讯地图 https://map..com/ ] (2026.1 閲覧)
◯編註 現在の中亦多(Chung Yiduo)と碩督鎮の間に位置する峠(达翁拉)と比定される。 + #54:ショバンドオ {木村} / シヨバンド {木村一周図} / ショウバンドウ (ショーバンド) {西川} / ショウバンドウ {沢木} 舒班多和屯 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 碩般多 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Себаньдо [Bichurin1828m] Shiobado [RGS1884m2] Chobando (Chou pan to) 3800 [Dutreuil de Rhins1889m] Shiobado [Bower1893m] 碩般多 [西蔵全図04m] 碩板多 [鑪藏道里最新考07] Shobando [SOI14m] Shoban-do (Shumio) [Pereira25m] Shobando (Shumdo) 12000 [SOI-1/100-No.82-29m] Shopando 11550 [Kaulback38m] シェバンド(碩般多)[ユック80(2), p401] シヨパトズ 3803 [陸測-1/100-印東-3-42m] SHUOPANDO (Shih-tu or Shih-pan-to) [AMS-5304-1/150-X11-45m] Shopando 3658 (12000) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Shobando 12000 [USAF-1/200-CL305-51m] ШОЧУАНЬДО (ШОДУ) 3599 [USSR-1/20-H-46-12-77m] 碩般多 (Xobando) [西蔵地名96, p457] 碩督 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 硕督鎮 (洛隆県) [西藏自治区地図冊2024, p92-93]
◯編註 現在の硕督鎮 (洛隆県) と比定される。詳しくはこちらを参照のこと。 #55:「谷川のほとり」 {西川} / 「谷川のほとり」 {沢木} ◯編註 不明。 #56:[チベットの霊峰ツァーリイの山について解説] {西川} ◯編註 西川の著書には挿話としてアッサム・ヒマラヤにある聖山ツァリ巡礼についての記述が収録されている。聖山ツァリについては、こちらを参照のこと。 #57:「松林と岩山の峠」 {木村} / (峠の表示のみ) {木村一周図} 德噶拉達巴漢 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] Гора Теватанъ [Bichurin1828m] (峠の表示のみ) [Dutreuil de Rhins1889m] 得噶拉山 [鑪藏道里最新考07] Tekhar La 14596 [Kaulback38m] Pass [AMS-5304-1/150-X11-45m] (峠の表示のみ) [USAF-1/200-CL305-51m] пер. Текар 4650 [USSR-1/20-H-46-12-77m] 徳嘎雄 [腾讯地图 https://map..com/ ] (2026.1 閲覧)
◯編註 現在の徳嘎雄と比定される。 + #58:ロー・ゾン村 {木村} / ローゾン {木村一周図} / ソーゾン {西川} 羅隆宗和屯 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] 洛龍宗 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Хлорунъ-цзунъ [Bichurin1828m] Lho Jong [RGS1884m2] Lhorong dzong (Lhodzong) 4000 [Dutreuil de Rhins1889m] Lho Jong [Bower1893m] 洛隆宗 [西蔵全図04m] 洛龍宗 [鑪藏道里最新考07] Lhong [SOI14m] Lho Dzong 13140 [SOI-1/100-No.91-25m] Lho Dzong 12680 [Kaulback38m] ロゾン 4005 [陸測-1/100-印東-1-42m] Lkho-dzong 4005 [AMS-5304-1/150-X11-45m] Lho Dzong 13140 [USAF-1/200-CL305-51m] Lho Dzong 3871(12700)[AMS-1301-1/100-NH47-63m] ЛХО-ДЗОНГ (ЛОЛУН) [USSR-1/20-H-47-7-77m] 洛隆 (Lhorong) [西蔵地名96, p290] 康沙 [中国-1/100万地形図-H-47-97m] 康沙鎮 (洛隆県) [西藏自治区地図冊2024, p92-93]
◯編註 現在の康沙鎮(洛隆県)と比定される。詳しくはこちらを参照のこと。 #59:「急峻な峠」 {木村} пер. Дайла (4230) か? [USSR-1/20-H-47-7-77m] (編者推測) 徳工玛多か? [Google map 2026.1 現在](編者推測)
◯編註 不明(旧ソ連参謀本部地形図 [USSR-1/20-H-47-7-77m]に表記されたпер. Дайла (4230) だろうか?)。 + #60:サイ・サンカ村 {木村} / サ・イ・サンバ {木村} / サイサンバー {西川行程図} 紗(?)布雅三巴多罕 [乾隆十三排圖(十排西ニ)(清廷三大実測全図集2007)] 嘉裕橋 番名三埧橋 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Сябіъ сямба [Bichurin1828m] 嘉祐橋(チヤユチヤオ)[ユック80(2), p403] Sapia Br [RGS1884m2] Pont Kia yukiao [Dutreuil de Rhins1889m] 嘉裕橋 [西蔵全図04m] 嘉玉橋塘 [鑪藏道里最新考07] Kiayu-kiao [SOI14m] Siayi Zamka (Chiayü Chiao) [SOI-1/100-No.91-25m] Kiayu-kiao [Pereira25m] Shabye Zampa [Kaulback38m] シアイザンカ(チアユチアオ) [陸測-1/100-印東-1-42m] Siayi-zamka (chioyu-chikho) [AMS-5304-1/150-X11-45m] Siayi Zamka (Ghiayu Chiao) [USAF-1/200-CL305-51m] Shabye Zampa [AMS-1301-1/100-NH47-63m] Цзяюйцяо[USSR-1/20-H-47-7-77m] 加玉桥 (Xabyai Qiao) [西蔵地名96, p210-211] 加玉 [中国-1/100万地形図-H-47-97m] 嘉玉桥 / 夏布叶桑(藏名) [妥2021]
◯編註 現在の嘉玉桥付近 (洛隆県) と比定される。嘉玉桥の歴史については下記URLを参照のこと。(2026年1月現在) https://www.xzxw.com/cd/2017-04/17/content_2767094.html #61:サルウィン川 、ナク・チュウ川 (黒い川) {木村} Р. Омчу [Bichurin1828m] Oïr tchou (Nou Kiang ou Salouen) [Dutreuil de Rhins1889m] Giama Nu Chu [Bower1893m] 怒江 即 薩倫江 又名 潞江 [西蔵全図04m] 怒江 即 潞江 [鑪藏道里最新考07] Giama-nu R. [SOI14m] Kiama Ngu (Salween) [SOI-1/100-No.91-25m] Gyamo Ngo Chu [Kaulback38m] キアマグ(サルウェン)河 [陸測-1/100-印東-1-42m] Kiama-ngu (Gyamonuchu, Sal'veen) (River) [AMS-5304-1/150-X11-45m] SALWEEN RIVER [USAF-1/200-CL305-51m] Нуцян (Салуин) [USSR-1/20-H-47-7-77m] 怒江 [西藏自治区地図冊2024, p92-93] ◯編註 サルウィン川は上流部で怒江、ナク・チュウ川と呼ばれる。 + |
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| (11) サ・イ・サンバ~イトゥクラ峠 |
(・・・)橋を渡りワコウ村#62、ここのかぶらの切り干しを買った家で、ラサでなにか騒ぎがあったとのうわさを聞いた。 小さい峠を二つ越えてイトゥクラ峠#63にかかる。峠を上り雪の始まるところで泊まる。翌朝午前二時ごろ出発。この峠は頂上が高原状になっていて六つの丘が続いている。その全部が約二十キロにわたり深い雪におおわれている。踏み固めた小道が雪あかりにボーッと見える。足もとがすべり、なかなか道がはかどらない。(・・・) (p197) (・・・)やっとの思いで頂上オボらしき物にたどりつき、雪の上にころがって休んだ。 (p197) (・・・)一気に雪のはずれまでがんばり、黒い大地を見た時ホッとした。雪原から小川がチョロチョロと流れているそのほとりに、西川氏とふたりならんで寝ころび、しびれるような冷たい小川で目をひやした。(・・・) (p197-198) |
ワコウ#62 イトゥクラ峠#63 |
十戸ばかりのワコウ#62という部落に到着した。ここからイチュー峠#63という一大難所を越えなければならなかったが、雪が深く、一ヶ月もしなければとても越せないだろうという話をどの宿場でも聞いた。(・・・) (p303) 隊商の後について出発、第一日目は灌木の中で野宿した。(・・・) (p303) 星明かりをたよりに、無気味なほど静まりかえっている石礫、黄土の荒涼とした山を登って行った。間もなく雪路となる。傾斜は大したものではなかったが長かった。(・・・)六千メートルのタンラの支嶺を越える、この「イチュー峠」#63とは、「四つの峠」という意味で、ワコウ#62を後にして松林の山を越した峠が第一の峠#64、山頂に立ったこの峠が第二#65、そしてその後、次々と立ち塞がる第三#67、第四の峠#69を、続けざまに越さなければならなかったのである。 (p304) (・・・)隊商の通った足跡を一歩も踏みはずさないように、急斜面の斜面を下り始めた。もし踏みはずそうものなら、腰を没する雪がふたりを埋めようとしたからである。凄い雪である。下り終わると、四方に高い白山に囲まれた大盆地に出て、波打つ丘陵を越えながら進む。この盆地がシナの旅行記にある湖#66なのであろう。しかし深い雪に蔽われた盆地は、どこが湖か見当はつかなかった。進むにつれ足跡の道を一歩でも踏みはずすと、深くはまり込んで足を奪われ、足を抜こうとして、一方の足に力を入れればその足も奪われ、もがけばもがくほど身動きができない。おまけに雪の下は水が流れているらしく、足はびしょびしょに濡れ、深いものではないが、どうやら、湖を渡っているらしいことが分るのであった。どれほど苦しんだことであろう。 盆地を渡ると山峡に入り、盆地の外郭である第三の峠#67への急斜面を登り始めた。(・・・) (p304-305) そんなとき、峠を下ってきたひとりの西康人と出会った。(・・・)一語も喋らず行き過ぎる。#68なんだか薄気味悪さを覚え、思わず遅れた友のことが心配になり振り返った。 (p305) (・・・)元気なく立ち上がって、再び急傾斜の山峡を滑りころがりながら下って行かなければならなかった。(・・・)間もなく山上の台地に出て、大地が点々と懐かしい土を見せてきたときは、なんともいえぬ痛快さを覚えた。 (p305-306) 翌日、眼が覚めたとき、眼の中がチカチカ針をさすように痛い。(・・・)余儀なく出発し、やっと小川の辺りに出たふたりは、いつもならまず燃料を集め、茶沸かしにと元気づくのであったが、茶どころか、飲み食う気もせず、顔を小川の中につっこんで眼を冷やし始めた。(・・・) (p307) 三日間の悶え苦しみの後、幾分痛みが和らいだため出発する。しかしその後も数日間は眼がチカチカして気分は晴れなかった。谷間を渡るとイチュー峠の第四の峠、最後の峠#69へと上って行く。峠に立って驚いた。どこまでも続くのかも知れない、急傾斜の、千仞の谷が眼下に見下された。道は、その狭い黄土の絶壁を、右折左折することもできずに、まっすぐに、下っているのだからたまらない。(・・・) (p307-308) |
ワコウ#62 イチューラ (イチュラ峠)#63 |
ワコウ#62という小さな集落に到着した。 (p132) 早朝、隊商が出発し、二人もそれについて歩きはじめた。 その日の夜は、灌木の生い茂る中で野宿することになった。 (p133) だが、茶を沸かし、ツァンパを食べ、隊商の足跡を追い、ようやく峠に着いて、愕然とした。その向こうはまるで白い海原とでもいうべきところで、あたり一面に雪の波打つ峰々が広がっている。 イチューラ峠#63とは「四つの峠」という意味で、そこは第二の峠#65だったが、まだ第三#67、第四の峠#69を越さなくてはならなかったのだ。 二人は、とりあえず隊商の足跡を辿って急斜面を下った。 (p133) ようやく第二の峠#65を下り切ると、雪の下は水というようなところが増え、足が濡れるようになった。立ち止まれば、靴の中まで滲みてきた水の冷たさに針で刺されるような痛みを覚える。それに、休もうにも、一面の雪のため、腰を下ろす場所がない。眼はますます痛み、ウールグの重さが肩に食い込んでくる。 やがて第三の峠#67への急な登りが始まった。(・・・) (p134) 第三の峠#67の台地状のところに出ると、少しずつ土が顔をのぞかせるようになった。白い魔の雪からようやく逃れることができたのだ。 (・・・) そこで野営することにしたが、木村は雪で眼をやられたため苦痛を訴えた。雪盲になってしまったらしい。 翌朝、西川も起きると眼が痛くなっていた。(・・・) (p134-135) 第三の峠#67を下っている途中、ようやく小川が流れているところにぶつかった。二人は、ひどく空腹だったが、なによりも先にまずしたのは、その小川の水で眼を冷やすことだった。(・・・) (p135) ようやくいくらか痛みが薄らいだので出発することにした。 イチューラ峠の最後の峠、第四の峠#69に登り、ほとんど絶壁のような坂道をまっすぐに下った。 (p136) |
#62:ワコウ村 {木村} / ワコウ村 {西川} / ワコウ {沢木} [乾隆十三排圖(十排西ニ)(清廷三大実測全図集2007)] 瓦合塘 / 瓦合寨 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Ваго[Bichurin1828m] L. Hua ho 付近か?(編者推測)[RGS1884m2] Houa ho tang [Dutreuil de Rhins1889m] 瓦合塘 [西蔵全図04m] 瓦合寨 [鑪藏道里最新考07] Waho? [SOI-1/100-No.91-25m] 瓦合寨(ワホチヤイ)[ユック80(2), p404] ワホ [陸測-1/100-印東-1-42m] Uakho? [AMS-5304-1/150-X11-45m] Waho [USAF-1/200-CL305-51m] Siayi Zamka (Chiayu Chiao) [AMS-1301-1/100-NH47-63m] Вахэ [USSR-1/20-H-47-7-77m] 瓦河 (Wago) [西蔵地名96, p483] 瓦河 [中国-1/100万地形図-H-47-97m] 瓦河 (洛隆県) [西藏自治区地図冊2024, p92-93]
◯編註 現在の瓦河 (洛隆県) と比定される。 + #63:イトゥクラ峠 {木村} / イチュー峠 {西川} / イチューラ (イチュラ峠) {西川行程図} / イチューラ峠 {沢木} 瓦和山 [乾隆十三排圖(十排西ニ)(清廷三大実測全図集2007)] 瓦合山 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Хр. Ваго [Bichurin1828m] Mts. Houa ho [Dutreuil de Rhins1889m] 瓦合山 [西蔵全図04m] 瓦合山 [鑪藏道里最新考07] Ijou P. [SOI-1/100-No.91-25m] 瓦合(ワホ)山 [ユック80(2), p404] イヂョウ峠 [陸測-1/100-印東-1-42m] Ijou Pass [AMS-5304-1/150-X11-45m] IJOU P [USAF-1/200-CL305-51m] Ijou P [AMS-1301-1/100-NH47-63m]
◯編註 中国語の文献では瓦合山と表記される。 #64:「松林の山を越した峠が第一の峠」 {西川} 4421 [USSR-1/20-H-47-7-77m] (編者推測)
◯編註 旧ソ連参謀本部地形図 [USSR-1/20-H-47-7-77m] では標高4421mの峠と推測される。 #65:「山頂に立ったこの峠が第二」 {西川} / 「第ニの峠」 {沢木} 4968 [USSR-1/20-H-47-7-77m] (編者推測)
◯編註 旧ソ連参謀本部地形図 [USSR-1/20-H-47-7-77m] では標高4968mの峠と推測される。 #66:「この盆地がシナの旅行記にある湖なのであろう。」 {西川} L. Houa ho [Dutreuil de Rhins1889m] 瓦合湖 [西蔵全図04m] (湖の表記あり) [USSR-1/20-H-47-7-77] 玉措察扔 [Google Map] (2026.1 閲覧) ◯編註 西川が言及しているのは、シナの旅行記(「衛藏圖識」(衛藏圖識1792))を引用するユック80(2)(原本は1939年刊)の下記の記述と考えられる。 『案内記はこの道について次のやうに言つてゐる。 「瓦合(ワホ)山には湖水がある。こゝに立ちこめる濃霧に道を失はぬため、高所々々に木標が建てられてゐる。全山雪に覆はれる時にはこの標識を傅つて行くことが出来る。但し音を立てぬやう注意しなければならない。一語をも囁いてはならぬ。然らざれば氷雪は瞬く暇に轟然と覆ひ被るであらう。四季凍結してゐるために全山を通じて一匹の禽獸も生棲してゐない。百里以内には、家屋を見ることは出來ない。」 (原文---山上有海子、烟霧迷離、設望竿堆三百六十、合周天數、如大雪封山時、藉以爲嚮導、過比戒勿出聲、違則冰雹驟至、山之中島獸不棲、四時倶冷、途百里無炊烟)』)[ユック80(2), p404-405] 旧ソ連参謀本部地形図 [USSR-1/20-H-47-7-77m] やGoogle Map では西川や沢木が「第三の峠」とする峠(*註67参照)の南東約2kmの位置に湖(玉措察扔)が表記されている。
#67:「第三(の峠)」 {西川} / 「第三の峠」 {沢木} пер. Мола 4885 [USSR-1/20-H-47-7-77m] (編者推測)
◯編註 旧ソ連参謀本部地形図 [USSR-1/20-H-47-7-77m] ではпер. Мола(4885m)の表記の峠と推測される。 #68:「一語も喋らず行き過ぎる。」 {西川} ◯編註 この峠を通る時は一言も喋ってはいけないという(ユック80(2), p404-409)。 #69:「第四の峠」、「イチュー峠の第四の峠、最後の峠」 {西川} / 「イチューラ峠の最後の峠、第四の峠」 {沢木} пер. Гайбола 5046 [USSR-1/20-H-47-7-77m] (編者推測)
◯編註 旧ソ連参謀本部地形図 [USSR-1/20-H-47-7-77m] ではпер. Гайбола(5046m)の表記の峠と推測される。 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] + | |||||||||||||||
| (12) イトゥクラ峠~チャムドオ |
夕方谷へ下りニエンダ村#70に泊まる。川#71にそってラゴン#72まで下り、再び二日かかってナムツォクラ峠#73(おだやかな山の意、3900メートル)を越える。全くけわしい山である。おだやかなれと旅人が願うのも無理はない。谷間に下ると赤い濁流のザ・チュウ川#74に出る。メコン川の上流である。川っぷちのラムダ#75から川にそって下り、一日でチャムドオ(昌都)町#77に着いた。ラサをたってから約二ヵ月である。 (p198) チャムドオ#77の町はメコン川の上流ザ・チュウ川#78の合流点、三角台地の上にある。人家は三百くらいで商店が多い。(・・・) (p198) 町の北側に高さ十メートルくらいの赤土のがけがあり、その上が台地になっていてそこにお寺#86があり、本堂の西に、お寺の一角を借りて、東チベット総督府とでも訳すか、チベット政府の代表部がある。(・・・) (p198-199) |
ニエムダ#70 ラゴン#72 ナムツオラ峠#73 (*村の表示のみ)#75 チヤムド#77 |
(・・・)深い谷はなおも長らく下り、五十戸ばかりの「ネンダー」#70の部落に出た。 部落は「地獄の底」あるいは深い井戸のような、狭い渓谷にあると形容したらいいだろう。四方天をつく黒色の絶壁の山々に囲まれ、北、西、南の三方に扉を開いたように山峡が口を開いている。 周囲の猫の額のような山峡は、畑となっていた。ふたりは河畔に建てられた大きな宿屋に、宿をとることができた。政府の宿泊所で、平常は旅行者に利用されていた。このネンダー#70は交通の要地でもあり、重要な所である。ここで、二日間の滞在のあと、針でザンバーと肉を補給し、渓流に沿って東に下る。この渓流はインドシナ領に入るメコン河の源流であることを知った。#71 次の峠への路は実に長かった。 峠は「ナムツオラ」(天の湖峠)#73と呼ばれているように、禿山となった峠は、広々として雪に覆われていた。(・・・) (p308) ようやくナムツオ峠#73を下りた数十戸のラムダ部落#75の下には、北方から「オム河」#74が悠々とした流れを見せて南流し、この河を北上すれば、リオゥチェー#76に至る路が通じ、一日河に沿って南下すればチャンドウ#77に達していた。 部落の入口には大きな駅亭の宿があり、私達はそこに一夜を求めた。(・・・) (p309) 翌日オム河#74の東岸に出ると、沙地の荒野が開けていたが、灌木の繁岩山が河に迫ってきて深い渓谷となり、美しい渓谷を進むと、西康の首都チャンドウ#77の街が眼前に開けてきた。ラサを出発してから二ヵ月という日数を費やし、約三千キロを踏破していたのである。その間、山また山、河また河の難路という外はなかった。越えた峠は大小二十近くを数え、チュ峠#29、シャル・ガン峠#45、イチュー峠#63、ナムツオ峠#73は最も嶮岨なもので、河は、キ河#5、ジャマダー河#24、バサン河#84、ヤロン河のブラマプトラ河#85、ナク河のサルウィン河#61、オム河のメコン河#74が主なものである。 (p309-310) チャンドウ(昌都)#77は高い峨々たる山々に囲まれ、ザ河#78とオム河#74が合流して、メコン河となって南流している猫の額のような三角州上の深い谷間にある。地勢の点においては決して勝れた所ではないが、西康#7の中央に位して、地理的要地となっているために、昔から政治、軍事、商業、交通の中心地となり、西康#7の首都である。 (p310) チャンドウ(昌都)#77からの公路はメコン河に沿って南下してネンチェン#79に至り、東折して、「バタン」#80「リタン」#81を経てターチェンロー(打箭炉)#2に達している。この公路のほか、チャンドウ#77からは東に向かって、デルゲ(徳格)#14-カンゼイ(甘孜)#82に至る路もあり、カンゼイ#82からは南下してターチェンロー#2、北上して青海省のユシュ(玉樹)#111、北東してラブラン#83に至る巡礼路がある。また、チャンドウ#77からザ河#78を遡って「チョルケイ・スムドウ」#97を経てユシュ#111に向かう路もあり、放射路のように東西南北に開けていて交通の要地になっている。 (p311-312) |
ネンダー#70 ラゴン #72 ナムツオラ (ナムツォー峠)#73 ラムダ (ラムダー)#75 チャンドウ(昌都)#77 |
やがてネンダー#70という集落に出ることができ、そこにあった宿屋に二日ほど滞在し、針の交易で食料を調達してから渓流#71に沿って下っていくことになった。 渓流#71に沿って進んでいくと、ラゴン#72という小さな集落に至り、そのはずれで野宿をすることになった。翌朝、ラゴン#72を出て、渓流#71に架かっていた木橋を渡り、いよいよタンラ、唐古拉の山嶺越えに向かうことになった。峠の名はナムツオラ、「天の峠」#73と呼ばれているらしい。 ようやく登り、ナムツオラ峠#73の最高地点に立つと、四方八方、見渡す限り、白雪の山が何重にも連なっていた。 峠の反対側の斜面は急傾斜となっていたが、夕方から霙になり、体を濡らしたまま、野宿しなくてはならなかった。翌日も深い渓谷を下りつづけ、ようやくラムダ#75という集落で宿を得た。 (p136) 翌日、川を渡って美しい渓谷を進むと、カムの都とも言うべきチャムド#77の街が眼前に開けてきた。 (p137) チャムド#77は、四百戸あまりの家とチャムドゴンバというラマ廟#86から成る街だった。 中国の成都とチベットを結ぶ、いわゆる茶馬古道の要衝にあたるためか茶舗が多い。 (p137) |
#70:ニエンダ村 {木村} / ニエムダ {木村一周図} / ネンダー {西川} / ネンダー {沢木} 納達噶珊 [乾隆十三排圖(十排西ニ)(清廷三大実測全図集2007)] 恩達寨 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Янда [Bichurin1828m] Ngenda (Seta tang) [Dutreuil de Rhins1889m] 恩達寨 [西蔵全図04m] 恩達寨 [鑪藏道里最新考07] Ngemda (Enta) 3934 [Coales19m] Ngenda [Pereira25m] Enta (Ngemda) [SOI-1/100-No.91-25m] 恩達寨(オンダチヤイ)[ユック80(2), p409] エンタ(ヂエンダ) [陸測-1/100-印東-1-42m] Enta [AMS-5304-1/150-X11-45m] Enta (Ngemda) [USAF-1/200-CL305-51m] Enta(Ngemda) [AMS-1301-1/100-NH47-63m] ЕНЬДА [USSR-1/20-H-47-7-77m] 恩达(Nganda) [西蔵地名96, p143] 恩达 [中国-1/100万地形図-H-47-97m] 恩达 [丁青県志2022, p402] 恩达 (类乌齐県) [西藏自治区地図冊2024, p80-81]
◯編註 現在の恩达 (类乌齐県) と比定される。 #71:川 {木村} / 「この渓流はインドシナ領に入るメコン河の源流であることを知った。」 {西川} / 渓流 {沢木} Dzi Ch'u [Coales19m] ◯編註 この川は、西川が記述のとおりメコン河の上流であり、現在は若曲(あるいは紫曲)と呼ばれる(ちなみに、木村「東チベット一周図」と西川「西康行程図」ではともにサルウィン川水系として描かれているのは誤り)。 + #72:ラゴン {木村} 拉貢 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Лагунъ [Bichurin1828m] Lagong [RGS1884m2] Logong [Bower1893m] Lagoung [Dutreuil de Rhins1889m] 拉貢 [西蔵全図04m] 拉貢 [鑪藏道里最新考07] Lagong [SOI14m] Lagong 3642 [Coales19m] Lame [Pereira25m] Lagong (Lame) [SOI-1/100-No.91-25m] ラゴン(ラム)[陸測-1/100-印東-1-42m] Lagong [AMS-5304-1/150-X11-45m] Kadong [USAF-1/200-CL305-51m] Lagong (Lame) [AMS-1301-1/100-NH47-63m] Лагонг [USSR-1/20-H-47-7-77m] 滨达 (Pênda) [西蔵地名96, p44] 滨达乡 (类乌齐県) [西藏自治区地図冊2024, p80-81]
◯編註 現在の滨达乡(类乌齐県) と比定される。 + #73:ナムツォクラ峠(おだやかな山の意) {木村} / ナムツオラ(天の湖峠) {西川} / ナムツオラ(天の峠) {沢木} 納穆錯拉達巴漢 [乾隆十三排圖(十排西ニ)(清廷三大実測全図集2007)] Г. Цзола [Bichurin1828m] 褁角塘 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Namcho La [Bower1893m] -- [Dutreuil de Rhins1889m] 褁角塘 [西蔵全図04m] 果角山 [鑪藏道里最新考07] Namcho P. [SOI14m] Namts'o La 4634 [Coales19m] Namtso La [Pereira25m] Namtso P. 15200 [SOI-1/100-No.91-25m] ナンツオ峠 4633 [陸測-1/100-印東-1-42m] Pass [AMS-5304-1/150-X11-45m] NAMTSO P 15200 [USAF-1/200-CL305-51m] (峠の表示のみ)[AMS-1301-1/100-NH47-63m] пер. Намцола 4953 [USSR-1/20-H-47-7-77m]
◯編註 この峠の意味は、「おだやかな山(ナムツォクラ)」(:木村)あるいは「天の湖峠(ナムツオラ)」(:西川)と考えられる(沢木は「天の峠(ナムツオラ)」としているが、「ツオ」の意味を無視したやや勇み足な解釈)。 #74:「赤い濁流のザ・チュウ川」 {木村} / オム河 {西川} Р. Омчо [Bichurin1828m] Om Chu [RGS1884m2] Om tchou [Dutreuil de Rhins1889m] Nomu chu [Kozloff02, p579] 鄂穆楚 / 昂楮河 [西蔵全図04m] 默楚河 / 昂楚河 [鑪藏道里最新考07] Om Ch'u [Coales19m] Dje Chu / Ngom Chu [Pereira25m] Ngom Chu [SOI-1/100-No.91-25m] オムチュ(昻楮)[ユック80(2), p412] ゴンチュ河 [陸測-1/100-印東-1-42m] Ngom-chu (R) [AMS-5304-1/150-X11-45m] Ngom Chu [USAF-1/200-CL305-51m] Ngom Chu [AMS-1301-1/100-NH47-63m] ЭМЧУ [USSR-1/20-H-47-8-77m] 昂曲 [西藏自治区地図冊2024, p74-75] ◯編註 この河は現在の中国の地図ではメコン河の支流「昂曲」と表記される。木村はこの箇所を「ザ・チュウ川」と表記しているが、西川が記す「オム河」が正しい。メコン河は上流部で幾つかの支流に分岐しているが、木村はメコン河上流の支流についてどれも"ザ・チュウ川"と表記する傾向がある。 + #75:ラムダ (ラムダー) {木村} -- [乾隆十三排圖(十排西ニ)(清廷三大実測全図集2007)] 浪蕩溝 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Ламда цзунь [Bichurin1828m] Lamda [RGS1884m2] Lamda [Bower1893m] [Dutreuil de Rhins1889m] 浪蕩溝 [西蔵全図04m] 浪蕩溝 [鑪藏道里最新考07] Lumda [SOI14m] Lamda 3315 [Coales19m] Lamda [Pereira25m] Lamda [SOI-1/100-No.91-25m] ランダ [陸測-1/100-印東-1-42m] Lyamda [AMS-5304-1/150-X11-45m] Lamda [USAF-1/200-CL305-51m] Lamda [AMS-1301-1/100-NH47-63m] Ламда [USSR-1/20-H-47-7-77m] 郎达 [中国-1/100万地形図-H-47-97m] 朗达 (昌都市卡若区) [西藏自治区地図冊2024, p74-75]
◯編註 現在の朗达(昌都市卡若区)と比定される。 + #76:リオゥチェー {西川} 類伍齊 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Рывуцьзъ [Bichurin1828m] Riwoche 12290 [RGS1884m2] Rivoudzé [Dutreuil de Rhins1889m] 類多齊 [西蔵全図04m] Riuchi My [Bower1893m] Riwoch'e 3678 [Coales19m] Riwoche (Leiwuchi) 12600 [SOI-1/100-No.91-25m] リウオチェ(レイウチ) [陸測-1/100-印東-1-42m] Riwoche (Leiwuchi) [USAF-1/200-CL305-51m] Riwoche(Leiwuchi) 3640(12600) [AMS-1301-1/100-NH47-63m] 类乌齐 (Riwoqe) [西蔵地名96, p272] 类乌齐 [中国-1/100万地形図-H-47-97m] 类乌齐鎮 达果龙拉 (类乌齐県) [西藏自治区地図冊2024, p80-81]
◯編註 西川が記す「リオゥチェー」は、現在の类乌齐県政府がある桑多镇ではなく、桑多鎮の北西約20kmに位置する类乌齐鎮の方である。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%BB%E4%B9%8C%E9%BD%90%E9%95%87 + #77:チャムドオ(昌都) {木村} / チャンドウ(昌都) {西川} / チャムド {沢木} 察穆多珠克特亨 [乾隆十三排圖(十排西ニ)(清廷三大実測全図集2007)] 察木多 [衛藏圖識1792 (圖考上巻(程站))] Цапмдо [Bichurin1828m] Chiamdo [RGS1884m2] Chiamdo [Bower1893m] TSIAMDO (KIOBDO ou CHAMOUTO) [Dutreuil de Rhins1889m] Chamdo (Tsiamdo) [Kozloff02, p579] 察木多 即 昌都衛 [西蔵全図04m] 察木多 [鑪藏道里最新考07] Chiamdo [SOI14m] CH'AMDO 3243 [Coales19m] Chamdo (Chamudo, Changtuhs) [Pereira25m] Chamdo 10600 [SOI-1/100-No.91-25m] Chamdo [Kaulback38m] チヤムド(察木多)[ユック80(2), p411] チャンド 3231 [陸測-1/100-印東-1-42m] CHAMDO OR CH'ANG-TU (CH'A-MU-TO) [AMS-5304-1/150-X11-45m] CH'A-MU-TO [USAF-1/200-CL305-51m] Chamdo 3231(10600) [AMS-1301-1/100-NH47-63m] ЧАМДО 3370 [USSR-1/20-H-47-8-77m] 昌都 (Qamdo) [西蔵地名96, p69] 昌都 [中国-1/100万地形図-H-47-97m] 昌都 [丁青県志2022, p402] 昌都市卡若区 [西藏自治区地図冊2024, p74-75]
◯編註 現在の昌都市卡若区(西蔵自治区)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%A0%E3%83%89%E5%B8%82 #78:ザ・チュウ川 {木村} / ザ河 {西川} Dza chu [Kozloff02, p579] Dza ch'u (Mekong) [Coales19m] ◯編註 メコン河はチャムド(昌都)からの上流部で大きく2つに分岐している。左(東側)がザ河、右(西側)がオム河である。両河はそれぞれ上流部でさらにいくつかの支流に分岐している。 #79:ネンチェン {西川} ◯編註 現在の芒康県(西蔵自治区)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%92%E5%BA%B7%E5%8E%BF 20世紀には江卡県、寧静県等の県名だったことがある(西蔵地名96, p306-307)。 #80:バタン {西川} ◯編註 現在の巴塘県(四川省甘孜藏族自治州)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E5%A1%98%E5%8E%BF #81:リタン {西川} ◯編註 現在の理塘県(四川省甘孜藏族自治州)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E5%A1%98%E7%9C%8C #82:カンゼイ(甘孜) {西川} ◯編註 現在の甘孜藏族自治州。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E6%97%8F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%B7%9E #83:ラブラン {西川} ◯編註 現在の拉卜楞寺(甘肃省甘南藏族自治州夏河县)と考えられる。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%89%E5%8D%9C%E6%A5%9E%E5%AF%BA #84:バサン河 {西川} ◯編註 不明。 #85:ヤロン河のブラマプトラ河 {西川} ◯編註 不明(ブラマプトラ河上流のヤルツァンポ河のことか?)。 #86:お寺 {木村} / チャムドゴンバというラマ廟 {沢木} ◯編註 現在は「強巴林寺(Galden Jampaling Monastery)」と呼ばれる。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%BA%E5%B7%B4%E6%9E%97%E5%AF%BA |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] | |||||||||||||||
| (13) チャムドオ~ツォルケ・スムド |
五月初旬チャムドオ#77を出発、メコン川#78を渡り、上流地方へ行った。チャムドオ#77からジェクンドオ#111へ抜ける途中、吹雪の中を難行して野宿する良い場所がなく困っていた時、山の中腹に岩穴を発見した。山腹をよじ上って雪が止むまで二日間滞在したが、その岩穴の横に野生の沈丁花があった。その馥郁とした花の香は、私に故郷の家を思い出させた。 チャムドオから七日行程、メコン川の支流#98に面してツォルケ・スムド#97(スムドとは川がY字になっている地形の意味)というところがある。ここがチベット政府と青海省との行政上の境界になっている。川の上に木造の橋があって扉がついている。(・・・) (p200) 橋を渡ったところが三角台地になっていて、下から見えなかったがちょっと大きな村がある。(・・・) (p200) |
ザチュウ川(メコン)#78 シヨムド #87 シヨムドウイラー峠 #88 (*峠の表示のみ) #93 (*峠の表示のみ) #94 (*峠の表示のみ)#95 ツオルケ・スムドー#97 |
チャンドウ#77の街を離れてザ河(メコン河)#78の河岸を北上して数日後。河を渡り谷川を渡り、黄土の山腹を登って、ちょっとした台地上に出た。畑となっている台地上には、数戸の「ダランドウ」#89という、山家の部落があった。 (p316) 翌日、針でザンバーを補給し、不安に戦きながらも出発した。路は北に向かって間もなく、松樅の密林の中に入り、なだらかな山腹を登って行く。(・・・) (p316) しばらくすると密林を出て、路はそのまま山を登る路と右手の狭い山峡に入る路とに分かれ、はたと困ってしまった。 山峡に入ると、山峡は急に開け、荒涼を極めている北方の山麓下に、小さなラマ廟#90が遠望された。(・・・) (p317) 心配したほどのこともなく一夜が明け、出発しようとしているところへ、遊牧民の若い夫婦が通りかかり、彼らも峠への路に出るというので同行する。嶮しい山路を登って山上に出ると、ションデイ峠#88に対立するように屹立していた赤褐色の岩山#91が、北方に山の勇者のような姿を現わしていた。遊牧民のふたりは西方の鬱蒼とした密林に覆われた千仞の谷となっている、深い渓谷へと降って行った。#92どこに彼らの住家があるのかと思わせる所だった。ふたりはなだらかな起伏となっている峠への路を登って行く。ソルと豊草で敷きつめられていた山腹は、岩と片岩の絶壁の斜面に架けられた吊り橋のような狭い岩路に移り、「ギョウ峠#59」という峠に出た。 (p317-318) ダランドウ#63から登り始めるこのギョウ峠#66への路は、大して急傾斜なものではないが、実に長いものだった。ちょうど山間に下った時、霰が襲って来た。(・・・)霰は小雪と変わり、白色の大地と底冷えのしてくる寒気は、ふたりに野宿を許さず、薄暗くなった山間を思い足どりで北に向かう。実に情けなかったが天の恵みか、間もなく、黄土の山腹に、ふたりようやく坐れる小さな洞窟を見出した時は、どれほど喜んだことであろう。 (p318-319) 翌日、羊の鳴き声で眼を覚ました。(・・・)山間を進むと部落はあったがバナクが二つあっただけである。(・・・)余りの見事な洞窟に驚き、かつその宿舎に満足し、前進することを忘れて洞窟内に腰を下した。洞窟は部落の家畜小屋となっていて、アルガリの燃料は豊富だし、それに久し振りの乳製品は胃袋を満足させてくれ、夕暮れが迫れば羊、山羊、ヤクのお帰りで一段と賑やかになり、豪華なホテルにでも泊ったようなものだった。 (・・・) 道草三日後、ホテルを後に降って来た山間をさらに北へ、北へと向かう。 (p319-320) チョルケイ・スムドウ#97。ここはチベットとシナの国境の街である。 河幅五、六十メートルのザ河#98の急流に木の橋が架けられ、対岸に、長廊下のように木屋根が葺かれ入口には扉が設けられた衛兵所があり、警備は厳重になっていた。 しかし衛兵所には人影が見えず、一層不気味さを増し、不安にかられながら橋を渡って行った。(・・・) (p320) (・・・)山上は広い台地となっていて、三十余戸の人家が点在していた。ふたりは二階建の高い白壁に囲まれた、部落で一番大きな建物の前に案内された。チョルケイ・スムドウ#97のチベット側の国境警備の衙門だった。 (p321-322) |
ショムダー (シヨムダー)#87 ションデイ峠 (シヨンダー峠)#88 ダランドウ (ダランド)#89 ギョウ峠 (ギヨー峠)#93 ユジュカ#94 チョルケイ・スムドウ (ツオルケイスムドー)#97 |
二人はチャムド#77を出発し、ザチュ河#78の北上を開始した。それはこれまでの旅とは比較にならないほど苛酷な旅になった。 数日後、ダランドゥー#89という集落に辿り着いた。 (p140) そこからギョウ峠#93への道は長かった。道に迷い、野宿をし、雪に降られ、寒気に震えながら、折り重なるように連なる山々を越えていった。 ようやく遊牧民の黒いバナクに出会い、針で食糧を求めた。 すると、わずかな針で、新鮮な乳製品とヤクの肉を手に入れることができただけでなく、彼らが家畜小屋として使っている広い洞窟を使わせてもらうことができた。(・・・)二人は、その洞窟で三日も過ごしてしまった。 そこを出発し、山あいの道を進んでいくと、激しい流れの河にぶつかった。チョルケイ・スムドゥ#97というチベットと中国との国境の地に至ったのだ。 急流#98に架かっている木の橋を渡ると、対岸に国境の管理をするチベットの官吏と兵士がいた。そこは二つの河の合流地点で、その先のもう一本の河#99を渡れば中国の青海省に入るらしい。 (p140-141) |
#87:シヨムド {木村一周図} / ショムダー (シヨムダー) {西川行程図} Djoung sada [Dutreuil de Rhins1889m](編者想像) 冲撤得 [西蔵全図04m](編者想像) ◯編註 不明(西川91, p268の「西康行程図」ではダランドウ南方のションデイ峠の南にショムダーが表記されている。Dutreuil de Rhins1889mと西蔵全図04mでチャムド北東に表記のある「Djoung sada (冲撤得)」のことだろうか?)。 #88:シヨムドウイラー峠 {木村一周図} / ションデイ峠 (シヨンダー峠) {西川行程図} ◯編註 不明(西川68, p41の「西康行程図」ではダランドの南方に表記されている)。 + #89:ダランドウ {西川} / ダランドウ (ダランド) {西川行程図} / ダランドゥー {沢木} Toglando [Teichman22m] Toglendo [SOI-1/100-No.91-25m] Toglendo [AMS-5304-1/150-X11-45m] Toglendo [USAF-1/200-CL305-51m] Toglendo [AMS-1301-1/100-NH47-63m] Дуланьдо or Ладо (Доланьдо) [USSR-1/20-H-47-2-77m] 都兰多 [中国-1/100万地形図-H-47-97m] 多拉 (昌都市卡若区) [西藏自治区地図冊2024, p74-75]
◯編註 現在の都兰多(昌都市卡若区)と比定される。ダランドゥー~ツォルケ・スムド間については、地名を比定できる資料をみつけられなかったため、この間の木村・西川の踏査ルートはよくわからない。 #90:「小さなラマ廟」 {西川} ◯編註 不明。 #91:「赤褐色の岩山」 {西川} 標高5334mの岩山か?[USSR-1/20-H-47-2-77m] (編者想像)
◯編註 西川の記述及び西川68, p41の西康行程図から、ダランドウを挟んで南に「ションデイ峠」、北に「赤褐色の岩山」が聳えていることが推測される。 Google MapやGoogle Earth等でこの地域の地形を観察すると、該当する岩山はダランドウ(都兰多)の北約16kmにある岩山(旧ソ連参謀本部地形図の標高5334m)と想像される。 #92:「遊牧民のふたりは西方の鬱蒼とした密林に覆われた千仞の谷となっている、深い渓谷へと降って行った。」 {西川} ◯編註 西川が記す「赤褐色の岩山」が*註91で編者が推測した岩山であれば、遊牧民のふたりが西方に下降した渓谷はメコン河支流ザ・チューの渓谷と推測される。 #93:(*峠の表示のみ) {木村一周図} / ギョウ峠 {西川} / ギョウ峠 (ギヨー峠) {西川行程図} / ギョウ峠 {沢木} ◯編註 不明。 #94:(*峠の表示のみ) {木村一周図} ◯編註 不明。 #95:(*峠の表示のみ) {木村一周図} ◯編註 不明。 #96:ユジュカ {西川行程図} Yuchuka [SOI-1/100-No.91-25m](編者推測) Yuchuka [AMS-5304-1/150-X11-45m](編者推測) Yuchuka [USAF-1/200-CL305-51m](編者推測) Yuchuka [AMS-1301-1/100-NH47-63m](編者推測) ◯編註 不明。 + #97:ツォルケ・スムド {木村} / チョルケイ・スムドウ(ツオルケイスムドー){西川行程図} / チョルケイ・スムドゥ {沢木} 曹改松多 [玉樹縣志稿68, p62] Дздансы 3820 [USSR-1/20-I-47-32-77m] 面达 (Mainda) [西蔵地名96, p313] 小蘇莽乡草格 [玉樹州志2005, p89-90, p1185] 面达乡 (昌都市卡若区) [西藏自治区地図冊2024, p74-75] 草格 [青海省地図冊2024, p90-91](編註:対岸は面达乡) 草格松多 (Cao Gesongduo) [Google Map (2025-11-11閲覧)]
◯編註 ツォルケ・スムドは現在の昌都市卡若区面達郷(西藏自治区)と玉樹市小蘇莽郷草格(青海省)の境界付近の草格松多と比定される。 #98:「メコン川の支流」 {木村} / 「河幅五、六十メートルのザ河」 {西川} / 「急流」 {沢木} ◯編註 現在の「西蔵自治区地図冊」等の表記では「扎曲」(瀾滄江上流部)の支流「盖曲」と推測される。 #99:「北方からの河」、「河には橋がなく、・・・」 {西川} / 「その先のもう一本の河」、「途中の河」 {沢木} ◯編註 現在の「西蔵自治区地図冊」等の表記では「扎曲」(瀾滄江上流部)の支流「草曲」と推測される。 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] | |||||||||||||||
| (14) ツォルケ・スムド~ジェクンドウ |
その日すぐ川向こうの青海省に入り、川に沿って北上、約十日をついやして揚子江支流の上流へ出た。氷の浮かぶ流れを何度も渡った。#105 広い平野に出たのでどちらへ行くのかわからず、道をきこうと思っていると、丘の麓に数頭の馬と女の姿が見えたのでそちらへ近づいて行った。パンチェン・ゴンバ寺(班禅寺院)#109はどこだとたずねたら、女が何か答えたようだったが意味がわからない。(・・・) (p207) その平原を西に進み、日没になったので道路わきで寝ていると騎馬の男が来て、近くに集落があるからもっと遠くへ行け、行かないと犬をけしかけるぞという。暗闇の中を進んで野宿。翌朝、目を覚ますとわれわれは、飛行場の真ん中#108にいた。飛行場といっても天然の野原で、ゆるく北へ傾斜している。傾斜の高いほうに、丘のすそにそって排水溝が長く掘ってある。 この飛行場は一九四二年、米軍のイリヤ・トルストイ大尉(文豪レオ・トルストイの孫だという)が設定したものである。彼は一九四二年にインドからチベット、青海へ旅行した。重慶政府への物資空輸基地を設置するためだったといわれている。ここには施設といってはなに一つない。ただ二間四方くらいの泥家が一軒立っているだけである。川向こうに大きな寺院が見える。パンチェン・ゴンバ寺#109である。かつて大きな美しい寺院だったのがだいぶさびれている。寺院の右手に低い泥家があり、兵隊の姿が見え、その向こうに畑がある。(・・・) (p207-208) 翌朝出発、川に沿って下る。麦畑で一泊、翌日の午前中、川の南岸にあるオンボラマの寺院#110に着いた。ジェクンドオ(玉樹)#111の町が川をへだてて見える。タルチン氏からの紹介状をオンボラマに差し出した。(・・・) (p210) ジェクンドオ#111の町へ入ったら町の入口のところに無電台があって、道路ぎわの掲示板に墨で書いたニュースがはってある。曰く、「外蒙軍新疆省白塔山攻撃、青海回教軍出動・・・・・・」。 町の西南隅にジェクンドオ県役所があり、庭には花が一面に植えてあった。(・・・) (p210) |
(*峠の表示のみ)#106 パンチエンゴンパー寺#109 玉樹#111 |
足踏みすること十四、五日、やっと疑いが解けて釈放され、思い出多いチョルケイ・スムドウ#97を後にユシュ#111へ向かった。台地を下ると、すぐ北方からの河#99を渡らなければならなかった。世話になった家の主人は、ここまで馬で見送ってくれた。河には橋がなく#99、家畜の背を借りなければ、徒歩では渡れなかったからである。路は河の西岸を河に沿って上る。しばらくすると河は二手に分かれ、路は西北への深い狭い山峡に入り谷川を上る。#100間もなくラマ廟が屹立する岩山の山腹に姿を見せた#101。この辺から山峡は再び開け、畑が点々として、十余戸の部落#102に出る。村外れにニ棟とその前の広場に、多くの馬繋ぎの杭が立てられてある建物が、二人の眼を引いた。ニ棟は多くの竈が築かれ、燃料のアルガリが山積みされいざという場合の炊出しの用意がされた、シナ側の駅亭だった。その後チョルケイ・スムドウ#97-ユシュ#111間を結ぶこの路上で、幾つものこのような駅亭が姿を現わした。部落#102を過ぎると、山々は次第に低い黄土の禿山となり、河畔に四、五戸ならんでいる部落に到着し、#103一農家の物置小屋で一泊する。 翌日、部落を後にすると、山峡は狭まり、畑は姿を消し、再び遊牧地帯が始まろうとしていた。長らく進んで東北に向け山を越え始める。山というより広々とした無味乾燥の台地である。峠に出れば大して下ることなく#104、「赤い谷間」と命名したい、黄土の谷間に下り野宿する。 谷間を出ると、広々とした一大草原が開けていた。そして眼前には幅二、三十メートルもある流れ豊かな河が横たわっていた。河はチョルケイ・スムドウから東北に向かったザ河の上流となっていた。#105 対岸には背丈くらいの灌木が一面に密生していた。路は河に突入していたが、青ずんだ河は渡れそうにもなく、河を上下して橋を探したが、橋はなかった。仕方なく渡河点を探して渡るより他に方法はなかった。(・・・) (p328-329) 対岸に渡ると路という路はなく、赤面しながら娘達に路を聞かなければならなかった。起伏する草原を東北に向かえば、バナクが点在し、ヤク、羊、山羊の群れも多く豊潤な牧野となっていた。その日は娘達の教えてくれたシナの駅亭に辿り着き、一夜を過ごした。 (p330) だんだんユシュ(玉樹)#111に近づいて来てカーラという峠#106にたどりついた。そんなにけわしくも高くもなかったが、岩山の色は黒褐色をして、なんとなく無気味さを漂わせていた。(・・・) 翌日、さらに渓流を下る。 (p330-331) 渓流を渡り密林を過ぎ、危ない一本橋を渡って行くと、はるか北方の山麓下に蜃気楼のようにバンチェン廟#109が浮かんだ。これは目的地のユシュ#111まであと一日行程のところである。(・・・) (p331) ちょうどそのとき、遠く西方の山腹にニ、三十頭の馬を放牧させている女の姿が眼についた。(・・・)平野の真只中、ふたりはフェルトを被って草原に蹲り、雨の過ぎるのを待った。(・・・) (p331) 河を下り、絶壁の巖山の鼻を巡ると、ユシュ(玉樹)の街#111は対岸に姿を現わしていた。下って来た河は北方の広い山峡からの渓流と合流して、東方の深い狭い山峡に消え去っている。この河は揚子江の上流金沙江に流れ込んでいるのである。ブラマプトラ河、サルウィン河、メコン河とアジアの大河を渡って来た身には、実に感慨無量なものがあった。 この合流点の東岸、河に迫る岩山の山麓から山腹にかけて数百戸の小さな泥家が、あたかも泥煉瓦を雑然と積み重ねたように並び、山頂には白亜のジェークンドウ廟#112が城砦のように聳えて、どことなくチャンドウ(昌都)#77の街を彷彿させていたが、チャンドウ#77より大きな街であったことは、ふたりを驚かせた。 河畔の畑の中をしばらく進むと二十余戸の部落に入る。 「シャララマの家はどこか」と尋ねる。シャララマはかつてカーレンポン#113のチベット新聞社で、ニ、三年働いたことのある有識なラマで、ユシュ#111に着いたら、シャララマの家を尋ねて行けば、宿を貸してくれるであろうと、木村君がチベット新聞社の社長から聞いていたからである。彼の家は部落外れの河畔にあった。数個のラマ塔が流れ豊かな河畔に並び、その傍の高壁に囲まれた家が彼の家だった。(・・・) (p335-336) |
アモー廟 (ソモー廟)#101 カー峠 #106 ラロンド#107 バンチェン廟 (パンチエン廟)#109 玉樹 (玉樹(ジェクンドウ))#111 |
二人がチョルケイ・スムドゥ#97から玉樹#111に向かって出発するときは、軟禁されていた農家の主人がとんだ災難だったなと途中の河#99まで馬で送ってくれた。 幾夜か野宿を重ねていくうちに、カーラという峠#106の麓に至った。 (p144-145) 次の日、カーラ峠#106の頂に向かって登っていくことにした。急ではなかったが悪路であり、峠#106の最高地点は雪で覆われていた。 峠#106を下り、その日は絶壁の下にあった不気味な洞窟で一夜を明かした。 翌日、渓流沿いにさらに峠#106を下っていくと、道はその渓流を渡らなくてはならなくなっている。 (p146) 渓流は一本だけでなく、何本もあり、そのたびにつらい渡河を繰り返さなくてはならなかった。 さらに進んでいくと、峡谷が開け、灌木の密生する丘陵地帯に出た。 そこにはまた一本の河が流れており、その向こうの北方の山の麓に、旅の途中で聞いた、パンチェン廟#109と思われる白亜の殿堂が蜃気楼のようにゆらめいていた。 それは目的の玉樹#111まであと一日の距離まできたということを意味していた。(・・・) (p146-147) パンチェン廟#109を出て二日目、河を下り、絶壁の岩山の鼻を廻ると対岸に玉樹#111の街が見えてきた。 河は別の渓流と合流してさらに深い山峡に消えて行く。この合流点に数百の家がある。それが玉樹#111だった。 玉樹#111は中国の青海省の端にあるひとつの街にすぎなかったが、チベットのカム地方の都であるチャムド#77よりひとまわりも大きな街であることが西川には意外だった。 (p147-148) |
#100:「路は河の西岸を河に沿って上る。しばらくすると河は二手に分かれ、路は西北への深い狭い山峡に入り谷川を上る。」 {西川} ◯編註 西川の記述に従うと、木村・西川はチョルケイスムドウから(メコン河上流の)草曲の西岸を北上した後、草曲から西に分岐した支流(子曲河か?)沿いの道(現在は省道S223が通る)を北上したと考えられる。 + #101:「ラマ廟が屹立する岩山の山腹に姿を見せた」 {西川} / アモー廟(ソモー廟) {西川行程図} Сяосуман [USSR-1/20-I-47-32-77m] 蘇莾徳子提寺 (小蘇莾郷) [則武2005, p73] 蘇莽德子堤寺(Zur mang bdud rtsi dil)[劉2014, p102]
◯編註 西川が記載する「ラマ廟」(西川91, p268の表記は「アモー廟」、西川68, p41の表記は「ソモー廟)」)については、現在の青海省玉树藏族自治州玉树市小苏莽乡政府所在地の約15km南の子曲河(?)の北岸(右岸)に位置する「苏莽德子堤寺 (Zurmang Dutsitil)」と比定される。苏莽德子堤寺 (Zurmang Dutsitil) は「小苏莽」とも呼ばれ、「大苏莽」とも呼ばれる「蘇莽嚢杰寺」((Zurmang Nangyeltse:苏莽德子堤寺 (Zurmang Dutsitil) の西約60kmの青海省嚢謙県毛庄郷に位置)とともにチベット仏教カルマ・カギュ派の一分派・蘇莽カギュ派の寺院である(則武2005)。 苏莽德子堤寺 (Zurmang Dutsitil) については下記URLを参照のこと。(2026年1月現在) https://www.wenxuecity.com/blog/201002/48713/20006.html また、苏莽德子堤寺 (Zurmang Dutsitil) を紹介するYoutube動画も公開されている。(下記URL参照。2026年1月現在) https://www.youtube.com/watch?v=rkZyyjLqQos&t=3s https://www.youtube.com/watch?v=Wccgfav19Qo #102:「十余戸の部落」 {西川} ◯編註 不明(草曲から西に分岐した支流(子曲河(?))沿いの集落と思われ、西川行程図に表記されたラロンドの可能性もあると編者は想像している)。 #103:「河畔に四、五戸ならんでいる部落に到着し、・・・」 {西川} ◯編註 不明 #104:「峠に出れば大して下ることなく、「赤い谷間」と命名したい、黄土の谷間に下り野宿する。谷間を出ると、広々とした一大草原が開けていた。そして眼前には幅二、三十メートルもある流れ豊かな河が横たわっていた。」 {西川} Dont la か?[Kozloff02, p579](編者推測) 4451(編註:標高のみ表記の峠)か? [USSR-1/20-I-47-32-77m] (編者推測)
◯編註 西川が記す峠は、草曲から西に分岐した支流(子曲河(?))の源頭付近の峠と推測される。この峠から下った地形について西川は記述しているが、旧ソ連参謀本部地形図(USSR-1/20-I-47-32-77m)に表示された地形とは矛盾しない気がする。 #105:「川に沿って北上、約十日をついやして揚子江支流の上流へ出た。氷の浮かぶ流れを何度も渡った。」 {木村} / 「河はチョルケイ・スムドウから東北に向かったザ河の上流となっていた。」 {西川} ◯編註 ツォルケ・スムドから北上して木村・西川がたどり着いた河については、木村と西川との間で水系の表記が異なっている。彼らの踏査ルートから、西川の記述(メコン河支流の「ザ河の上流」 現在は「奖曲」と表記)が正しいと考えられる。 + #106: (*峠の表示のみ) / 「カーラという峠」 {西川} / カー峠 {西川行程図} / 「カーラという峠」、カーラ峠 {沢木} Hur la [Kozloff02, p579] Gur P. 15700 [SOI14m] Gur P. [SOI-1/100-No.90-20m] 熊拉山 [玉樹土司調査記20](編者推測) Gur La [Teichman22m] Gur Pass [AMS-5304-1/150-X11-45m] Gur P 4267 (14000) [AMS-1301-1/100-NI47-49m] KUERH SHAN-K'OU [USAF-1/200-CL305-51m] 5054 [USSR-1/20-I-47-32-77m] 格拉 4878 [中国-1/100万地形図-I-47-97m]
◯編註 1900年ロシアのKozloffがこの峠を北から越えている(Kozloff02, p579)。 #107:ラロンド {西川行程図} Sigarnalondoか? [AMS-1301-1/100-NI47-49m] (編者想像) ◯編註 不明。 + #108:「飛行場の真ん中」 {木村} Pa-tung [USAF-1/200-CL305-51m] Батан [USSR-1/20-I-47-26-77m] 巴塘 [中国-1/100万地形図-I-47-97m] 巴塘乡 [玉樹州志2005, p89, p1184] 巴塘机场 [青海省地図冊2024, p90-91]
◯編註 2000年10月に中村保氏が訪れた時点ではこの飛行場は使用されていなかったという[中村2005, p269]。その後、2009年8月に玉樹巴塘空港 (Yushu Batang Airport)として開港し、現在は中国国内便が運行している。 詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%A8%B9%E5%B7%B4%E5%A1%98%E7%A9%BA%E6%B8%AF #109:バンチェン・ゴンパ寺(班禅寺院) {木村} / パンチェン廟 {西川} / パンチェン廟 {沢木} Bhenche Gomba [RGS1884m2] Benchin homba [Kozloff02, p579] (homba = Monastery) Benchin [SOI14m] Benchin Gompa 12360 [SOI-1/100-No.90-20m] 班慶寺 [玉樹土司調査記20] Benchin Gomba [Teichman22m] Benchin-gompa [AMS-5304-1/150-X11-45m] Benchin G [AMS-1301-1/100-NI47-49m] Po-chin [USAF-1/200-CL305-51m] Баньцинсы[USSR-1/20-I-47-26-77m] 辺欽寺 (巴塘郷) [則武2005, p71] 班庆寺 [玉樹州志2005, p865 ] 邊欽寺(pan chen phun tshogs dar rgyas gling) [劉2014, p98] 巴塘乡(铁力角) (玉树市) [青海省地図冊2024, p90-91]
◯編註 現在の玉樹市巴塘乡(青海省)にあるカギュ派のゴンパ。 #110:オンボラマの寺院 {木村} Tong Gomba [RGS1884m2] (編者推測) Tangu homba [Kozloff02, p579] (homba = Monastery) (編者推測) Tangu Gomba [Teichman22m] (編者推測) Tangu G (Annual fair) [AMS-1301-1/100-NI47-49m] (編者推測) 當卡寺(‘dom dkar lhun grub bde chen sa don chos ‘khor gling)[劉2014, p99]
◯編註 不明(木村の記述からTangu Gombaと推測される。ちなみに、「オンボラマ」は寺院の名称ではない)。 + #111:ジェクンドオ (玉樹) {木村} / 玉樹 {木村一周図} / ユシュ(玉樹) / 玉樹(ジェクンドウ){西川行程図} / 玉樹 {沢木} Kegudo (Jyekundo) 11060 [RGS1884m2] Kégudo 3600 [Dutreuil de Rhins1889m] Jerku (vill) [Kozloff02, p579] (盖古多) [西蔵全図04m] JYE-KUNDO 12090 [SOI14m] JYEKUNDO 12000 [SOI-1/100-No.90-20m] 結古(盖古多) [玉樹土司調査記20] Jyekundo (Chiehku) 3625 [Teichman22m] Jyekundo (Yushuhs, Chiehku) [Pereira25m] JEKUNDO (YÜ-SHU) 3658 [AMS-5304-1/150-X11-45m] JYEKUNDO (YÜ-SHU) 3658 (12000) [AMS-1301-1/100-NI47-49m] Yu-shu (Chieh-ku) 12201 [USAF-1/200-CL305-51m] ЮЙШУ(ЦЗЕГУ) [USSR-1/20-I-47-26-77m] 玉樹(結古鎮) [中国-1/100万地形図-I-47-97m] 結古鎮 [玉樹州志2005, p88-89, p1182-1183] 西杭街道 (玉树市) [青海省地図冊2024, p90-91]
◯編註 現在の玉樹市西杭街道(青海省)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと(2026年1月現在)。 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%BB%93%E5%8F%A4%E8%A1%97%E9%81%93 結古鎮は2014年3月に廃止され、玉樹市内に「結古街道」「西杭街道」等4つの街道弁事処が設立された(現在の中国では「街道」は出張行政機関を意味する)。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと(2026年1月現在)。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%A8%B9%E5%B8%82 #112:ジェークンドウ廟 {西川} Jyeku Gomba [Teichman22m] 結古寺 (結古鎮) [則武2005, p70]
◯編註 現在の青海省玉樹市結古街道の結古山上にある結古寺。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと(2026年1月現在)。 https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/yushu/jiegu-monastery-83022?curr=JPY&locale=ja-JP https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%BB%93%E5%8F%A4%E5%AF%BA #113:カーレンポン {西川} ◯編註 現在のインド西ベンガル州の町カリンポン。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと(2026年1月現在)。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%B3 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
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| (15) ジェクンドウ~「コゲシ」の渡し場 |
三日滞在、六月初旬帰路についた。オンボラマはタルチン氏へ返書を託した。ナクチュウカ#114へ向かう大きな自動車道路に沿って進む。三日目くらいから道路はなくなり、草原に入った。川岸にはなだらかに傾斜がつけてあり、いつでも車が通れるようになっている。ジョクンドオ#111を出てたしか五日目だったか、よろよろしながら歩いて来る巡礼ラマに出会った。顔が土色になっている。すわりこんでしばらく話したが、腹がへっているというのでザンバをやった。 川の水でザンバをねって食いながら、私たちにナクチュウカ#114への道はやめろという。人家がぜんぜんない。たまに遊牧民を見受けるが道から遠く離れている場合が多く、ナクチュウカ#114からここまで二ヵ月もかかったそうだ。そこで私たちもナクチュウカ#114への道をやめて南下することにして、猟師におおよその道を聞いて西南に進んだ。 山また山の連続である。峠#124の上からながめると連山連峰が波頭のように見える。メコン川の上流ザ・チュウ川#120の岸でお茶を飲んでいる時、二人連れのカムバがやって来て、鉄砲をつきつけて私たちの所持品をとろうとした。(・・・) (p211-212) メコン川の上流ザ・チュウ川の渡し場#121に着いた時は、いったいどうやってわたるのかと思った。見ると、切り立った絶壁の両岸に大きな棒が立っていて、ヤクの皮をより合わせた腕くらいの太さのロープが一本渡してあるきり、他に何もないし近くにだれもいない。両岸の距離は約二十メートル、下には濁流が岩をかんでいる。 (p214) |
(*峠の表示のみ)#116 (*峠の表示のみ)#117 (*峠の表示のみ)#118 ザチュウ川(メコン)#114 (*峠の表示のみ)#116 パムチユウ川(メコン)#117 (*峠の表示のみ)#119 ゼチユウ川#125 トナラチェンゴンバー寺#126 |
(・・・)ラサに至る道はふたつある。ひとつは真西に向かってナクチュー#114経由、ラサに至るのと、他のひとつは途中から南下してセルツェカルナタン#138に出て、そこから北上しソクジャンダンゴン#140に行きラサに至る道である。前者の道は最短コースでもありかつ、大体において高原地帯を貫き、河は諸河の源流となっているため小流であり、地勢的には難所が少ない。しかし、ほとんど無人境となり、また、緯度、標高の関係で寒さが厳しいという欠点はあるが、隊商にはよく利用されている道である。 (p337ー338) (・・・)私達ふたりは毎日シャララマの所から街に出てはぶらぶらと情報、様子をあさって回った。が、しかし、私達の期待に反して大して見るべきものも調査するものもなかった。そこでこの山中の街は数日の滞在で、調査も十分であり、私達はラサに向け出発することにした。ユシュ(玉樹)#111からナクチュー#114へは北端回りのコースなら、二十日間を要すれば到着できるというので、このコースを選ぶことにした。 (p338) 私達がユシュ#111の街を人目を避けて、こっそりと出発したのは、つい二、三日前の夜明けであった。そして今、南回りでセルツェカルナタン#138へ向かう中間路の途上にいる。ナクチュー#114経由でラサに行く北端回りのコースは泥棒、掠奪者で危険であるとの、ナクチュー#114からきたラサ巡礼ラマからの情報を得て、南回りのコースをとることに方針を変えたからである。 (p339) バナク部落の河畔で野宿した、その翌早朝には、私達は山峡の谷川に入り、なだらかな黄土の山腹を登っていた。山頂に近づくにつれ、赤黄色の峨々たる岩山となり、とある峠#119に出る。再びその峠を越えメコン河を遡る#120につれ、鬱蒼とした樅林の密林が河に迫ってきた。 その美しい山水の影と豊富な薪が、私達を豊草の敷きつめる河畔#120で茶を沸かす気にさせた。(・・・) (p339) 翌日、部落を後にすると、灌木の密生する岩山が、紺碧の河に迫り、山腹の巨岩、白亜のラマ塔が影を投じ、美しい風景を展開していた。道は嶮しい山腹から灌木の密生する深い山峡に入って行く。数人の遊牧民達が盛んに燃料にする灌木を採っていて、もう少し登ると、「コゲシ」という渡し場#121があることを教えてくれた。 しばらくして渡し場に到着してめんくらった。これが彼らが話してくれた「コゲシ」の渡し場だろうか#121と、疑わざるを得なかった。 そこは山峡を登りつめたところで、両岸がちょうどコンクリートで固めたように、深い絶壁の岩頭が両方から迫り河水はダムのように轟轟たるうなりを立て、滝となっていた。そして両岸の岩頭には一本ずつ大きな棒が、周囲に石を山と積み重ねて立てられてあった。棒にはヤクの皮で編んだ太いロープが結びつけて張り渡されていた。そのロープの長さは二十余メートルもあった。(・・・)岩頭に立って河を見下ろせば、眼がくらむかと思うほどの深さと水勢で河下、河上も徒歩で渡ることは不可能な水量である。おまけに付近には部落はおろか、人影ひとつさえ見えず、猿ではあるまいし、一本のロープの上を渡る芸当はできそうもない。(・・・) (p348-349) そのあと、トナーラチェン廟#126にたどり着き、二泊する。そこで、これから私達が越えようとしている山頂について「あそこには、追剥ぎ同様の部落#127があるから、お前達ふたりでは、必ず掠奪されてしまう」と聞かされた。(・・・) 捨鉢な気持で山を登って行った。(・・・)山上は広い台地になって拡がり、珍しくシルグ地帯となり、丘陵のかげに七、八戸のバナクの部落が姿を見せた。 (p351-352) 高い交通税をとられて、翌日早朝出発した。彼らは部落外れまで送って詳しく道を教えてくれ、 「大事に行ってくれ!」 と笑顔を見せていた。(・・・) (p354) |
サチューカ (ザチューカ)#115 コゲシ#121 トナーラチェン廟 (トナーラチン廟)#126 |
玉樹#112からラサに向かうには、サルタン公路上のナクチュ#114を経由するルートと、セルツェカルナタン#138という集落を経由するルートの二つがある。聞けば、ナクチュ#114を経由するルートの方が早いらしい。玉樹#111からナクチュ#114まで二十日ほどかかるが、ナクチュ#114からラサまではすでに二人とも青海蒙古から来るときに通って知っている。それもあって、ナクチュ#114経由のルートを選ぶことにした。 ただし、そのルートの一帯はほとんどが遊牧地帯で、玉樹#111からナクチュ#114までは食糧、とりわけ農耕地帯にしかないツァンパの補給ができないため、可能な限りのツァンパを背負わなくてはならないという。 (p149-150) 六月初旬、玉樹#111を出発した。 玉樹#111から四日ほどが過ぎ、山峡を谷川に沿って歩いていると、馬に乗り、肩に小銃を掛けた遊牧民と出会った。(・・・) (p150) 話しながら歩いていると、道の向こうから四、五人の男たちが歩いてくる。 二人は緊張したが、それは、疲弊した蒙古人の巡礼者たちだった。彼らは、これから西川たち二人が向かおうとしているナクチュ#114回りのコースで歩いてきていたのだ。 彼らによれば、このコースは人家がないだけでなく、遊牧民も公路から離れたところにしかいないことが多く、食糧がまったく手に入らない。(・・・) (p150) その姿を見て、西川たちは急遽コースを変えることにした。 巡礼者たちによれば、とにかくセルツェカルナタン#138まで出れば、あとは農耕地帯になり、ツァンパも手に入りやすくなると聞いている、という。 そこで、二人はナクチュ#114経由ではなく、セルツェカルナタン#138を経由してラサに向かうルートを取ることにした。 (p151) その日から、ナクチュ#114ではなく、セルツェカルナタン#138という集落を目指しての旅が始まった。 山を越え、野宿を重ねているうちに、道を見失ってしまった。出会った巡礼者たちが教えてくれたセルツェカルナタン#138への行き方は曖昧で役に立たなかったのだ。 途中、たまたま出会った老牧夫や、遠くに見えたバナクに立ち寄ったりして道を教えてもらうことが続いた。 地図も磁石も持たない旅では、人に訊くより仕方がない。そして、それを信じるしかない。 (p151-152) ある日、美しい景色の中、河畔#120で茶を沸かしていると、不意に三人のカムパが飛び出してきた。 (p152) 翌日、険しい山腹から灌木の密生する峡谷へ入っていくと、出会った遊牧民がこの先に河を渡る渡し場#121があると教えてくれた。 ところが、その渡し場#121が大変な代物だった。両岸の絶壁のあいだに急流が音を立てながら流れている。もちろん船で渡るわけではなく、二、三十メートルは離れている両岸に、それぞれ太い棒が立てられており、そのあいだには、ヤクの細革を何本も編み込んで五寸(約十五センチ)ほどの太さにしたロープが張り渡されている。 (p154-155) あとで知ったところによるとその遊牧民は、近くのラマ廟#126に仕えている「渡し守」で、ここを渡る者があると、滑車を持ってやって来る。そして、その渡し賃としてなにがしかを受け取ると、それがラマ廟#126の収入になるのだという。 (p155) それでもなんとか渡り切り、対岸で崩れ落ちるほどへたりこんでしまった。 その日は、この渡し守の好意で、彼の家に泊めてもらうことができた。 翌日、出発するときに渡し守に忠告された。この先には追剥ぎの巣窟のような集落#127があって、二人だと持ち物のすべてを略奪されてしまうだろう。誰かが来るまで待った方がいいのではないか、というのだ。 しかし、これまでもなんとか切り抜けてこられたし、のんびりしている余裕がないと言って前進した。 すぐに渡し守が仕えるラマ廟#126に辿り着き、そこで二泊させてもらったが、ここでも同じことを言われてしまった。二人では危険すぎるというのだ。 それでは夜、闇に紛れて突破しようと決めて出発した。 途中、遊牧民の固定家屋が空き家になっていたので、そこで夜になるのを待った。 (p156-157) そこで、まだ日のある夕暮れどきにその集落を突破することにした。見つからないように通り過ぎようとしたが、やはり見つかってしまい、引っ張り込まれるように宿を借りなくてはならなくなってしまった。 (p157) |
#114:ナクチュウカ、ナクチュウの町 {木村} / ナクチュー {西川} / ナクチュ {沢木} Chiabden 4550 [Dutreuil de Rhins1889m] Shiabden Gomba [Bower1893m] 什布登 [西蔵全図04m] Nagchu Dzong [USAF-1/200-CL305-51m] 那曲 [西蔵地名96, p326-327] 那曲市色尼区 [西藏自治区地図冊2024, p112-113]
◯編註 怒江上流部の河川名と同じであるが、こちらは集落名を示す。現在の名称は那曲市色尼区。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと(2026年1月現在)。 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E5%B0%BC%E5%8C%BA #115:サチューカ (ザチューカ) {西川行程図} ◯編註 不明。 #116:(峠の表示のみ) {木村一周図} ◯編註 不明。 #117:(峠の表示のみ) {木村一周図} ◯編註 不明。 #118:(峠の表示のみ) {木村一周図} ◯編註 不明。 #119:「峠」 {木村} / 「とある峠」 {西川} ◯編註 不明。 #120:「メコン川の上流ザ・チュウ川」 {木村} / 「メコン河を遡る・・・」、「豊草の敷きつめる河畔」 {西川} / 「河畔」{沢木} ◯編註 不明(メコン河上流の支流のいずれか)。 #121:「メコン川の上流ザ・チュウ川の渡し場」{木村} / 『「コゲシ」という渡し場』、『「コゲシ」の渡し場だろうか』{西川} / コゲシ {西川行程図} / 「河を渡る渡し場」{沢木} 「津渡 (・・・) 雜曲河嚢謙古特知莊南有渡口寛約六十丈 馬行三百一十四歩 深沒馬腹水甚淸皆碎石鋪底冬亦不凍覺拉寺南亦有渡口 巴兒曲河嚢謙南南有渡口寛約三十餘丈深尺許 鄂穆曲河嚢謙撻朶寺東北有渡口 鄂穆曲流出境至類烏齊改九寺北有鐵橋寛約四十丈」 [玉樹土司調査記20, 巻上p40、玉樹州志2005, p324] (編註:嚢謙古特知莊の南にある雜曲河の渡口が”「コゲシ」の渡し場”と推測される) ◯編註 木村や西川の著書で記載された渡し場については、彼らの記述から「トナーラチェン廟」(現在の東垻郷吉赛村の吉曲河岸に位置)の近辺にあった渡し場(名称不明)と推測される。この渡し場について、西川は『「コゲシ」の渡し場だろうか』(西川91, p348-349)と記しているが、彼らが実際に渡った河はメコン河支流の鄂穆曲河(現在の吉曲)であり、「コゲシ」の渡し場は「玉樹土司調査記」の「津渡」の項に記載された嚢謙古特知(gutezhi)莊の南にある雜曲河の渡しのことではないかと編者は想像している。木村は「ザ・チュウ川の渡し場」と記しているが、正しくは「オム河(現在の吉曲)の渡し場」と編者は考えている。 #122:(峠の表示のみ) {木村一周図} ◯編註 不明(ザチユウ川(メコン)とパムチユウ川(メコン)の間の峠として表記。Teichman22mで該当しそうな峠を探すと、Dza ChuとBar Chuの間のManam La (4725m) あたりか?)。 #123:パムチユウ川(メコン) {木村一周図} Bar Chu [Teichman22m] 巴河 Pam [中華民國地圖集-III-61m-D35] 巴曲(上流部は巴日曲、巴尓曲)[青海省地図冊2024, p98-99] ◯編註 メコン河上流のBar Chu(現在の名称は巴曲(上流部は巴日曲、巴尓曲))と推測される。 #124:(峠の表示のみ) {木村一周図} ◯編註 不明(パムチユウ川(メコン)とゼチユウ川(メコン)の間の峠として表記。Teichman22mで該当しそうな峠を探すと、Bar ChuとDje Chuの間のShigar La (4360m) あたりか?)。 #125:ゼチユウ川 {木村一周図} Dje Chu [Teichman22m] 吉河 Die chu [中華民國地圖集-III-61m-D35] 吉曲 [青海省地図冊2024, p98-99] ◯編註 メコン河上流のDje Chu(現在の名称は吉曲)と推測される。 + #126:トナラチェンゴンバー寺 {木村一周図} / トナーラチェン廟 {西川} / 「近くのラマ廟」、「渡し守が仕えるラマ廟」 {沢木} 東囊拉慶寺 [玉樹土司調査記20, 巻下p3] 東襄拉慶寺 (東垻郷-襄謙県) [則武2005, p78] 东南喇青寺 [玉樹州志2005, p864-865] 東納拉瓊寺(Stong nag bla chung dgon pa) [劉2014, p103] 吉塞 (囊谦県) [青海省地図冊2024, p98-99]
◯編註 現在の东坝乡吉赛村尼达卡(囊谦县)の吉曲河西南岸にある东南喇青寺と比定される。詳しくは玉樹州志2005, p864-865を参照のこと。 |
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| (16) 「コゲシ」の渡し場~セルゼカルナタン |
ジェクンドオ#111をたって約二十日、セルゼポーラ峠#133を越え南下、久しぶりに麦畑のあるところを通って、ラサからチャムドオ#77へ行く北回りのキャラバン道路#137上にあるセルゼカルナタン#138という小さな町へ出た。 (p213-214) |
セルゼポーラ峠#133 セルゼカルナタン#138 |
その後しばらくはザ河をさかのぼり#128、ナムチンジョブラ廟#129をはるかに望みながら、さらにナム河#131の上流パム河#132の渓谷に入り、この河を渡って進むと標高五千メートルのゴーラ山脈#130が目前に迫っていた。 ゴーラ山脈#130のセルツェポー峠#133の雪の頂上を仰ぎながら寝た夜の寒かったこと、そしてあまりの寒さに寝ていられず夜明け前から歩き出したときの辛さは、とても筆や口で言い表すことはできない。(・・・) (p354) 山をおりて行くと部落が見えたので、私達は食料補給のため、そこに向かった。#135(・・・) サルウィン河を渡河し#136、豊草の波打つ山麓地帯を通ったとき、ちょうど遊牧民が、冬の野営地から夏の野営地へと移住しようとしていたところで、テント跡にはアルガリがくすぶり、夫婦ものが盛んにテントや世帯道具をヤクに荷積みしていた。 (p354-355) 翌日さらに渓谷を下る。長らくうねっていた渓谷も、しだいに開けて、南北に帯状になって広がる、セルツェカルナタン#138の平野が姿を現わしてきた。 「セルツェカルナタン」「セルツェカルナタン」#138この言葉をユシュ(玉樹)#111を出てから、幾十回、幾百回となく口にし、人々に尋ねたことであろうか!ここに出さえすれば、人家、耕地が点々とし、旅人の往来もあって路に迷う心配も匪賊に出会う心配もなく、ラサ、チャンドウ(昌都)を結ぶ中央路の公路にでることができることを、聞かされていたからである。#137(・・・) (p360) |
ナムチンジョブラ廟#129 セルツェポー峠#133 セルツェカルナタン(セルツエカルナタン)#138 |
歩いては野宿をし、また歩いては野宿をする。夏に差しかかっているというのに冷たく寒い。(・・・) だが、それでも、追剥ぎの集落#127を出てから十日目には、ゴーラ山脈#130のセルツェポーラ峠#133の頂上に辿り着くことができた。 そこは、初夏であるにもかかわらず、一帯に万年雪が残っているほどの高度だった。 (p158) セルツェポーラ峠#133まではメコン河の上流域の小さな河をいくつも渡ってきたが#134、そこを下ると今度はサルウィン河の上流域の小さな流れをいくつも渡ることになった。#136 渓流を上ったり下ったりして四日間が過ぎると、山あいに立っていたバナクで食糧の調達ができた。 (p159) 出発し、また渓流を渡ると、山峡が開けた。 夕方、ちょうど遊牧民が移動するところに出会い、片付けをしている出発前の女性に多量のミルクを恵んでもらった。 (p159) (・・・)山麓の集落で、着ているシャツと土鍋を交換してもらうことができた。(・・・) (p160) ようやくセルツェカルナタン#138の平野に到達した。 (・・・) 平野らしい平野を半日歩くと、河の対岸に百戸ほどの集落のセルツェカルナタン#138が見えた。 (p161) |
#127:「追剥ぎ同様の部落」 {西川} / 「追剥ぎの巣窟のような集落」、「追剥ぎの集落」 {沢木} ◯編註 不明。 #128:「ザ河をさかのぼり・・・」 {西川} ◯編註 西川は「ザ河」と記すが、彼らの踏査ルートから、メコン河上流支流の「鄂穆曲河」(現在の吉曲)と推測される。 #129:ナムチンジョブラ廟 {西川} 覚譲寺か? [則武2005, p79] (編者想像) 覺吒寺(Skyo brag dgon pa)か? [劉2014, p109] (編者想像)
◯編註 西川が記す「ナムチンジョブラ廟」については、則武2005, p79に記載された「覚譲寺」(嚢謙県覚拉郷にあり、「囊谦觉拉(juéla)寺」、「觉让寺」とも呼ばれる)ではないかと編者は想像している。 ただし、木村・西川が遠望した地点(「トナーラチェン廟」の周辺地域:現在の嚢謙県东坝乡吉赛村周辺か?)と嚢謙県覚拉郷の間の距離(約65km)や地形(両者の間に4000~5000m級の山脈が2本走っている)を考えると、木村・西川が遠望して見えた廟は、この地域で有名な「ナムチンジョブラ廟」ではなく、もっと手前の別の廟ではないかと編者は想像している。 囊谦觉拉寺については、下記URLに説明がある。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%A7%89%E6%89%8E%E5%AF%BA #130: ゴーラ山脈 {西川} / ゴーラ山脈 {沢木} ◯編註 「タンラ山脈」の間違い(編集上のミス?)ではないだろうか? #131:ナム河 {西川} 昂河(鄂穆河)(Ngam Chu) [中華民國地圖集-IV-62m-C29/30] ◯編註 メコン河支流の「鄂穆曲河」(現在の吉曲)と推測される。 #132:パム河 {西川} 巴壩河 (Pam Chu) [中華民國地圖集-IV-62m-C29/30] ◯編註 編者の推測では、パム河(巴壩河, Pam Chu)ではなく、現在の中国の地図では「东南喇青寺」付近で吉曲に流れ込む「沙曲」(「沙木曲」とも標記される。さらに上流部の名称は「木曲」)と想像される(下記URL参照。2026年1月現在)。 https://www.chinaviki.com/china-maps/?c=150602 #133:セルゼポーラ峠 {木村} / セルツェポー峠 {西川} / セルツェポーラ峠 {沢木}
◯編註 現在の標記で「木曲」(吉曲の支流「沙曲」の上流部:メコン河水系)と「日曲」(:サルウィン河水系)の分水嶺付近ではないかと編者は想像している(現在は、この付近を省道S204が通り、OpenTopoMapの等高線表示では標高約4940mである)。 #134:「メコン河の上流域の小さな河をいくつも渡ってきたが・・・」{沢木} ◯編註 木村・西川は、現在の標記ではメコン河水系の吉曲支流の「沙曲」-「木曲」(「波曲」という標記もある)をさかのぼり、布塔郷(丁青県:西蔵自治区)付近を通るルート(現在は省道S204が通る)を通ったと編者は想像している。 #135:「山をおりて行くと部落が見えたので、私達は食料補給のため、そこに向かった。」{西川} ◯編註 不明(セルゼカルナタンの上流域にある集落と推測される)。 #136:「サルウィン河を渡河し・・・」{西川} / 「サルウィン河の上流域の小さな流れをいくつも渡ることになった。」{沢木} ◯編註 セルツェ・ポー峠を越えた後の二人は、現在の標記で「日曲」(サルウィン河水系)を下ったと編者は想像している。 #137:「北回りのキャラバン道路」{木村} / 「ラサ、チャンドウ(昌都)を結ぶ中央路の公路にでることができることを、聞かされていたからである。」 {西川} ◯編註 セルゼカルナタンの手前での二人の記述を比較すると、セルゼカルナタンからの帰路ルートの想定が木村と西川の間で異なっていた可能性が推測される。その後のセルゼカルナタンからソクジヤンダンゴムバまでは、木村が想定したルート(現在では川藏公路北線とよばれる)が選択されている。 + #138:セルゼカルナタン {木村} / セルツェカルナタン {西川} / セルツェカルナタン {沢木} 色擦 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] Chetcha (Ssetcha) [Dutreuil de Rhins1889m] Tashi Ling My [Bower1893m] 色擦 [西蔵全図04m] Trashiling [USAF-1/200-CL305-51m] Сэчжа [USSR-1/20-H-46-6-77m] 色札 (Sêrca) [西蔵地名96, p448] 色扎 4470 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 色扎 Setsa [中村2016, p300-301] 色扎乡 (色扎卡那塘) / (丁青県色扎一帯) [丁青県志2022, p765, p771] 色扎乡 卡通 (丁青県) [西藏自治区地図冊2024, p82-83]
◯編註 現在の色扎郷(丁青県)と比定される。「色札」 は「色扎卡那塘」とも呼ばれていたという(西蔵地名96, p448 )。 詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E6%89%8E%E4%B9%A1 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] + | |||||||||||||||
| (17) セルゼカルナタン~ビルゾン |
(・・・)仕方なく所持品を売ることにした。雨衣、ひとえ、余分のシャツ、刀、短刀、数珠、お守り箱を売り食いしながら、セルゼカルナタン#138から七日目にソクジャンダン・ゴンパ寺#146についた。ここから西へ行けば一週間でナクチュウの町#114である。われわれは西南に進んだ。 (p214) |
(*峠の表示のみ)#140 (*峠の表示のみ)#142 ソクジヤンダンゴムバ寺#146 ビルゾン#148 |
私達はセルツェカルナタン#138からソクジャンダンゴン#146への中央道路を西に向かい進んだ。農耕地帯に入って嶮峻な山から離れたとはいえ、さらに二ヶ月近く既に交易品もなく、乞食同然の姿で河を渡り、山峡をよぎり、ただラサに向かい気力をふりしぼって歩いた。 リチャンドウ#143-イター#145-ソクジャンダンゴン#146-ビルゾン#148-レコンゾン#162-メトグンカ#10-ツェタン#164と身につけているもの一切を食物に代え、時には乞食のように夜は毛皮をかぶって丸くなって原野に寝、歩きに歩いた。 (p361) |
セリスムド#139 パタスムドー#141 リチャンドウ (リチヤンドウ)#143 ヤンアンダー (ヤンアムダー)#144 イター (イヌー)#145 ソクジャンダンゴン (ソクジヤンタン廟)#146 |
セルツェカルナタン#138を出ると、ふたたび山峡に入り、腰までつかって渓流を渡った。 岩山を登り、絶壁の細い道を歩く。台地に出て、小さな集落の近くで野宿をした。 翌日はまた河を渡らなくてはならなかったが、半日歩くとようやく見つかった。しかし、それは一本の丸太のままの巨木が渡してあるだけの橋だった。(・・・) (p161) この橋では渡し賃が取られなかった。だが、そんなことをしているうちにも日が暮れ、そこで野宿することになった。 (p163) 翌日からは西に向かい、駅亭のある集落の廃屋で寝たり、河畔で野宿したりしながら進んだ。 やがて道は二つに分かれた。さらに西に行けばナクチュ#114に向かう道と、南に行けばソクジャンダンゴンというラマ廟#146を経由してメトグンカ#10へと出る道の二つだった。 二人は、もちろん南への道を選んだ。 ソクジャンダンゴン廟#146に寄り、その門前の集落で食糧の補給をし、二日間の休息を取った。 さあもう一息だと動き出したが、それから二日後に辿り着いた峠#147からの光景を見て愕然としてしまった。 進むべき方向には、依然として褶曲山脈のいくつもの尾根が折り重なるように続いており、ひとつの尾根を越えると、また次の尾根を越えなくてはならないことが看て取れたからだ。 しかも、峠を下り、第一の尾根を越えようと登りはじめると、雹が降りはじめ、やがてそれが雪になった。苦しい登りと下りに耐え、どうにか第一の尾根は越えたが、それ以上は無理だった。 遮ってくれるものは何もなく、夏の雪に降られるままに、野宿するしかなくなった。 (p163-164) その翌日からの行程でも、さらに山また山の連続で苦しめられ、谷川を渡るたびに危ない目に遭った。 ようやくビルゾン#148というところに辿り着き、そこにある廟に二晩ほど泊めてもらった。 (p164-165) |
#139:セリスムド {西川行程図} Seresum-do 12800 [RGS1884m2] Sari Samdu [Bower1893m] Sari Sumdo [SOI-1/100-No.82-29m] サリサンド [陸測-1/100-印東-3-42m] Sari-sumdo [AMS-5304-1/150-X11-45m] Sari Sumdo [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Sari Sumdo [USAF-1/200-CL305-51m] Шари-Сумдо [USSR-1/20-H-46-6-77m] 塞儿松多/ Ser'esumdo (尺犊区駐地申多) [丁青県志2022, p402, p722] 巴格 (丁青県) [西藏自治区地図冊2024, p82-83]
◯編註 現在の巴格(丁青県)と比定される。 #140:(*峠の表示のみ) {木村一周図} пер. Чжунхо 4861 [USSR-1/20-H-46-5-77m](編者推測)
◯編註 セリスムドとパタスムドーの間の峠(旧ソ連参謀本部地形図[USSR-1/20-H-46-5-77m]の表記はпер. Чжунхо 4861 )と推測される。 + #141:パタスムドー {西川行程図} Batasumdo 14780 [RGS1884m2] Pata Samdo 13320 [Bower1893m] Bata Sumdo 13320 [SOI-1/100-No.82-29m] Pada Sumdo 13310 [Kaulback38m] バタサンド 4059 [陸測-1/100-印東-3-42m] Batasumdo [AMS-5304-1/150-X11-45m] Bata Sumdo 4054(13300) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Bata Sumdo [USAF-1/200-CL305-51m] Бата-Сумдо 4880 [USSR-1/20-H-46-5-77m] 巴达 (Bada) [西蔵地名96, p16] 巴达 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 巴達 [中村2016, p300-301] 巴达松多 / Bata-soundo (今丁青県尺犊区巴达公社[大都]駐地) / (丁青県尺犊鎮巴达乡一帯) [丁青県志2022, p403, p722, p771] 巴达乡 (丁青県) [西藏自治区地図冊2024, p82-83]
◯編註 現在の巴達郷(丁青県)と比定される。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E8%BE%BE%E4%B9%A1 #142:(*峠の表示のみ) {木村一周図} пер. Ка 4489 [USSR-1/20-H-46-5-77m](編者推測)
◯編註 パタスムドーとリチャンドウの間の峠(旧ソ連参謀本部地形図 [USSR-1/20-H-46-5-77m] の表記はпер. Ка 4489 )と推測される。 + #143:リチャンドウ {西川} / リチャンドウ (リチヤンドウ) {西川行程図} Richando 13220 [Bower1893m] Richando [SOI14m] Richando 13220 [SOI-1/100-No.82-29m] リチヤンド [陸測-1/100-印東-3-42m] Richando [AMS-5304-1/150-X11-45m] Richando [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Richando [USAF-1/200-CL305-51m] Ричендо [USSR-1/20-H-46-5-77m] Ritchimbo (bo为do 之讹) / 巴青県雅安多区 [丁青県志2022, p723] 格隆塘 (索県) [西藏自治区地図冊2024, p124-125]
◯編註 現在の格隆塘(索県)と比定される。 + #144:ヤンアンダー (ヤンアムダー) {西川行程図} Yangmando 13820 [Bower1893m] Yangamdo [SOI14m] Yangamdo 13320 [SOI-1/100-No.82-29m] ヤンガムド 4059 [陸測-1/100-印東-3-42m] Yangamdo [AMS-5304-1/150-X11-45m] Yangamdo [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Yangamdo 13320 [USAF-1/200-CL305-51m] Яаньдо [USSR-1/20-H-46-5-77m] 雅安多(Ya'ngando) [西蔵地名96, p528] 雅安 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 雅安 Ya'an [中村2016, p300-301] 雅安鎮 普古改 (巴青県) [西藏自治区地図冊2024, p128-129]
◯編註 現在の雅安(巴青県)と比定される。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%85%E5%AE%89%E9%95%87 #145:イター {西川} / イター (イヌー) {西川行程図} 「Ita Valley」の表示付近か? [Bower1893m](編者想像) Хатаか?[USSR-1/20-H-46-4-77m](編者想像) 桑达 (巴青県)か? [西藏自治区地図冊2024, p124-125, p128-129](編者想像)
◯編註 不明(現在の亚拉镇(索県)の東約18kmに位置する桑达 (巴青県) 付近か?)。 + #146:ソクジャンダン・ゴンパ寺 {木村} / ソクジャンダンゴムバ寺 {木村一周図} / ソクジャンダンゴン (ソクジャンタン廟) {西川行程図} / 「ソクジャンダンゴンというラマ廟」 {沢木} 索克和屯 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] Sok / Sok-khoton (編註:それぞれ異なる位置に表記)[RGS1884m2] Tsuk Sun Dong Gung My [Bower1893m] Sok dzong [Dutreuil de Rhins1889m] 索克宗城 [西蔵全図04m] Sok-koton [SOI14m] Sok Gomba [Pereira25m] Sok G [SOI-1/100-No.82-29m] 昨克松冬岡寺 13230 [西藏地方詳圖39m] ソクゴンパ [陸測-1/100-印東-3-42m] Sok-gompa [AMS-5304-1/150-X11-45m] Sugsundong G (Sok Gompa) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Sok Gompa [USAF-1/200-CL305-51m] СОКДЗОНГ (ЯЛА) [USSR-1/20-H-46-4-77m] 索県 (Sog Xian) [西蔵地名96, p463-464] 索県 (嘎切塘) [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 索県政府所在地索巴区的赞丹学 [丁青県志2022, p723] 索県 亚拉镇(赞丹雪) (索県) [西藏自治区地図冊2024, p124-125]
◯編註 現在の亚拉镇 (索県) 。詳しくは下記Wikipediaやこちらを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9A%E6%8B%89%E9%95%87 #147:(峠の表示のみ){木村一周図} / 「二日後に辿り着いた峠」 {沢木} пер. Жэдэ(5004) [USSR-1/20-H-46-4-77m](編者推測)
◯編註: ソク(索県)とビルゾン(比如県)を結ぶルート上にある峠 пер. Жэдэ(5004) と推測される (USSR-1/20-H-46-4-77m)。 + #148:ビルゾン {西川} / ビルゾン {沢木} Nakshö Biru [Kaulback38m] Naksho Biru [AMS-1301-1/100-NH46-47m] БИРУ [USSR-1/20-H-46-4-77m] 比如 (Biru) [西蔵地名96, p40-41] 比如 (比如雄) [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 比如宗 [丁青県志2022, p723] 比如鎮 (比如県)[西藏自治区地図冊2024, p116-117]
◯編註 現在の比如鎮 (比如県)と比定される。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://en.wikipedia.org/wiki/Biru_Town #149:(峠の表示のみ){木村一周図} ◯編註 不明 |
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| (18) ビルゾン~大湿地地帯 |
ナク・チュウ川#150にそって一日余さかのぼり、ゴワ舟で渡る。峠#154を上りつめると高原状盆地の大湿地地帯#156で、いろんな川の水源地になっている。(・・・) (p214) |
ナクチュウ川(サルウイン川)#150 (*峠の表示のみ)#152 ※(ナクチュウ川の南に並行する実在しない川の表示あり)#155 (西川一三氏のルート図にはこの川の表示なし) (*峠の表示のみ)#154 (*大湿地地帯の表示) #156 [中公文庫版のルート図、西川一三氏のルート図には表示なし] |
ビルゾン#148 | ビルゾン#148を出ると、メトグンカ#10までは食糧が調達できないというので、売ることが可能なものを売り払ってツァンパを手に入れることにした。 草原を行くと、ナクチュ河#150に出てきた。 河幅がとてつもなく広いうえに激流だった。ゴワと呼ばれる皮舟で渡ったが、それでも生きた心地のしないくらいの恐ろしさだった。(・・・) そこを渡ると、無人境のような地帯#151となった。(・・・) 峠を越え、河をさかのぼり#153、野宿することを続けていくと、ようやく出た台地の向こうに四、五個のバナクが集まっているのが見えた。 (p165) さほど急ではない峠をひとつ越え、二つ目の峠の頂#154から進むべき方角を眺めたときの光景には心を揺さぶられた。坂の下は、平野に網の目のように小川が走り、草の豊かなシルグ地帯、湿地帯になっている#156。点々と黒いバナクが見え、ヤクや羊の群れが遊び、まるで極楽浄土のように見えたからだ。 どうやらそこはラサを流れているキチュ河#5の最上流地域のようだった。この河を下ればラサに行き着くことになる。 河に沿って下っていくと、途中の河畔に、ラサからカム地方に赴任して行く兵士たちを出迎え、送り出すためにテントを張って待っている近在の農民たちが大勢いた。#157 (p166-167) 数日分の食糧を手に入れられた二人は、峡谷に入り、そこで野宿をするときも明るい気分で過ごせた。だが、そこからさらに岩山を登り下りしていくと、途中で、行き倒れらしい男の死体にぶつかった。他人ごとではなかった。それは明日の自分たちの姿だった。 (p167) |
#150:ナク・チュウ川 (サルウイン川) {木村一周図} / ナクチュ河 {沢木} Kara-Oussou (Nak-tchou) [Dutreuil de Rhins1889m] 喀喇烏蘇河 [西蔵全図04m] NAK CHU (SALWEEN) [SOI-1/100-No.82-29m] 那格河 [西藏地方詳圖39m] ナグチュ河 [陸測-1/100-印東-3-42m] Nag-chu (Sal'veen) (R) [AMS-5304-1/150-X11-45m] Nak Chu [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Salween River [USAF-1/200-CL305-51m] Нагчу (Салуин) [USSR-1/20-H-46-4-77m] 那曲 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 怒江 [西藏自治区地図冊2024, p116-117] ◯編註 怒江(サルウィン河)上流域の名称。 #151:「無人境のような地帯」 {沢木} ◯編註 不明(ビルゾンより上流のナク・チュウ川流域か?)。 #152:(*峠の表示のみ) {木村一周図} ◯編註 不明(ナク・チュウ川の南側の峠か?)。 #153:「峠を越え、河をさかのぼり」 {沢木} ◯編註 不明(木村・西川は、比如鎮の約15km西の良曲乡付近から南西に延びるナク・チュウ川支流(名称不明)を上流にさかのぼったのだろうか?)。 #154:「峠」 {木村} / (*峠の表示のみ) {木村一周図} / 「2つ目の峠の頂」 {沢木} ◯編註 不明(麦地卡(Maidika)湿地帯の北端付近の峠か?)。 #155:ナクチュウ川の南側に並行する河 {木村一周図} ◯編註 木村82, p193及び木村58, p172の「東チベット一周図」にはナクチュウ川の南側にナクチュウ川と並行して西から東に流れる川が描かれている。この川は、現在の表記では怒河支流の「杰曲」に相当するが、「杰曲」は木村の「東チベット一周図」で描かれているほど西方には延びていない(ちなみに、西川91, p268行程図にはこの川の表記はない)。 + #156:「高原状盆地の大湿地地帯」 {木村} / 「平野に網の目のように小川が走り、草の豊かなシルグ地帯、湿地帯になっている」 {沢木} 米底克淖爾 [乾隆十三排図(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] Moudik mtso (Midik) [Dutreuil de Rhins1889m] 迷梯克海 [西蔵全図04m] 迷梯克藏布河 [鑪藏道里最新考07] 麦地藏布 (Midi Zangbo) [西蔵地名96, p304] 麦地卡国际重要湿地 (嘉黎県) [西藏自治区地図冊2024, p114-115]
◯編註 現在の地図を使って木村・西川の歩んだルートをたどってゆくと、彼ら(沢木も含める)の記述にある大湿地地帯は、現在の嘉黎県にある「麦地卡湿地」 (Maidika Wetland)と比定される。「乾隆十三排図」(十排西三)にはすでにこの地域に湖(米底克淖爾)の表記はあるが、欧米探検家によって探査されなかったせいか、1950年代までの欧米の地図(AMS-1301-1/100-NH46-47m等)には実在しない山脈がこの地域に描かれていた(ちなみにこの大湿地地帯は、西川の著書の行程図(西川68, p41、西川91, p268)には表記されていない。一方、木村の著書では単行本収録の「東チベット一周図」(木村58, p172)には大湿地地帯が表現されているが、文庫版(木村82)収録の「東チベット一周図」(木村82, p193)では大湿地地帯の表現がなくなっている)。 編者の推測であるが、木村・西川によるこの大湿地地帯(麦地卡湿地 (Maidika Wetland))の踏査記録は、(日本を含む)欧米の探検記録として最も早い時期のものだと思われる。 現在の麦地卡(Maidika)湿地は、『特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約湿地の保護に関する国際条約(通称 ラムサール条約)』に2004年登録されている。詳しくは下記Web siteを参照のこと。(2026年1月現在) https://rsis.ramsar.org/ris/1438 最近では麦地卡(Maidika)湿地を訪れた中国人旅行者のYoutube動画が公開されているが、2025年現在、この湿地に関する日本語情報はWeb上でもほとんど見当たらない。 #157:「途中の河畔に、ラサからカム地方に赴任して行く兵士たちを出迎え、送り出すためにテントを張って待っている近在の農民たちが大勢いた。」 {沢木} ◯編註 この記述から、1940年代においてもヌマリ~ギャムダを経由しないでラサから東チベット(カム地方)に向かうこのルートが利用されていたことが推測される。 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
| + | [ Top ] ラサ --> メトグンカ --> ジャムダ --> ヌプカンラ峠 --> シャルカンラ峠 --> イトゥクラ峠 --> チャムドオ --> ツォルケ・スムド --> ジェクンドオ --> セルツェカルナタン --> 大湿地地帯 --> ラサ [ End ] | |||||||||||||||
| (19) 大湿地地帯~ギイ・チュウ川上流 |
(・・・)その湿地帯を縦断して#158ラサへの最後の峠#159を越えた時は嬉しかった。何百という峠を連日越え、もう峠にはうんざりしていた。この峠の南に小さな湖#160があり、その流れがラサのギイ・チュウ川#5へ注いでいる。流れに沿って下る。(・・・) (p214) |
(*峠の表示のみ)#159 | ラサに急ごうと、足を速めた。黄土の山の連なりを越え、苦しみながらようやく高い峠の頂上#159に着いた。 西川は、そこからの眺めのすばらしさに息を呑んだ。三方は山に囲まれ、眼下の谷底には紺碧に輝く湖#160が見えている。その峠こそが、ラサに至る「最後の峠」#159だった。 その夜は、湖畔に野宿した。#160 (p167-168) |
#158:「その湿地帯を縦断して・・・」 {木村} ◯編註 麦地卡(Maidika)湿地帯を川沿い(南西方向)に下って行っても、やがてはキチュ(Kyi Chu)河本流と合流するが、木村・西川は湿地帯を南方向に進むことでこの湿地帯を縦断したことが推測される(中国-1/100万地形図-H-46-97mや旧ソ連参謀本部地形図(USSR-1/20-H-46-9-77m, 1/20-H-46-10-77m)等でもこの湿地帯を縦断(南下)するルートが描かれている)。 + #159:『ラサへの「最後の峠」』 {木村} / (*峠の表示のみ) {木村一周図} / 「高い峠の頂上」、『ラサに至る「最後の峠」』 {沢木} 岡噶拉達巴漢 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] Mts. Gangala [Dutreuil de Rhins1889m] 岡噶拉山 [西蔵全図04m] 岡噶拉山 [鑪藏道里最新考07] Kong-ka P. [SOI14m] Kongka P [SOI-1/100-No.82-29m] 岡噶 [西藏地方詳圖39m] Kongkha Pass [AMS-5304-1/150-X11-45m] Konga P [AMS-1301-1/100-NH46-47m] KONGKA PASS [USAF-1/200-CL305-51m] 拉根拉 5234 [中国-1/100万地形図-H-46-97m] 拉根拉 [西藏自治区行政村名及寺院山川名2016, p448] 拉根拉 5234 (嘉黎県) [西藏自治区地図冊2024, p114-115]
◯編註 ラサへの最後の峠・・・旧ソ連参謀本部地形図等に描かれた大湿地地帯(麦地卡湿地 (Maidika Wetland))を縦断(南下)するルートをみると、拉里(Lhari)方向から西に向かうルート(このルートは、「衛蔵図識」等に記載のある拉里~墨竹工卡を結ぶ街道と推測される)と合流し、南西に進むと現在の中国の地図では「拉根拉」(5234)という峠(旧ソ連参謀本部地形図(USSR-1/20-H-46-15-77m)の表記は「пер. Гунга 5160」)に到達する。この峠は、墨竹工卡との位置関係等から「大清一統志」に記述のある「岡噶拉嶺 (Gangga la)」と比定される(「岡噶拉嶺」 については、詳しくはこちらを参照のこと)。(編者の推測ではあるが)木村や西川(沢木)が「ラサへの最後の峠」と記述した峠は現在の「拉根拉」(5234)であると考えられる。 #160:「峠の南に小さな湖があり・・・」 {木村} / 「眼下の谷底には紺碧に輝く湖が見えている。」、「湖畔に野宿した」 {沢木} 崔布错 [拉薩市政区图XXm] 错普错 [西藏自治区行政村名及寺院山川名2016, p442] 错普错 [Google Map (2025-10-27閲覧)]
◯編註 木村や沢木の記述のとおり、現在のGoogle Mapでも「拉根拉」の南西約10kmに「错普错」という名の湖が確認できる。 + |
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| (20) ドウゴン・ゴンパ~旁多 |
(・・・)ドウゴン・ゴンパ寺#161経由、ラサ渓谷の上流に出た。レティン寺#162のほうから流れてくるギイ・チュウ川#5の本流に沿って少し下り、鉄鎖でつるしたつり橋#163を渡る。(・・・) (p214) |
レティン寺#162 | キチュ河#5の源流の一本となる谷川を下りつづけていくうちに、鬱蒼とした林に差しかかった。清流とその水面に映る濃い緑が美しい。 幾夜か野宿を重ねていくと、レコンゾン#162という集落に出た。そこにはラマ廟があり、その学堂の前には、大地にひとりの病人が臥せっていた。(・・・) (p168) 二人は追われるようにそこを離れ、前に前にと歩きつづけた。ただ惰性のように槍をつき、足を運んだ。 やがて、キチュ河#5の本流が現れて、道が二つに分かれた。 ひとつは、ここでキチュ河を橋で渡り#163、ラサに向かう道。もうひとつは、キチュ河#5に沿ってメトグンカ#10まで行き、そこを過ぎてからキチュ河を皮舟で渡って#11ラサに向かう道。 二人は、皮舟に乗る金がなかったため、橋を渡る#163ことにした。 しかし、その橋というのも、革を編んでハンモックにしたようなもので、足を踏み出すごとに大きく揺れる。足下は激流だ。渡り終わったときは全身冷や汗でぐっしょり濡れていた。 農耕地に入っているため、畑の近くで野宿するようになった。 (p169) |
#161:ドウゴン・ゴンパ寺 {木村} Dugong Gomba [RGS1884m2] Dugong Gomba [Pereira25m] ドュゴンゴンパ [陸測-1/100-印東-3-42m] Dugong-gompa [AMS-5304-1/150-X11-45m] Dugong Gompa [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Dugong Gompa [USAF-1/200-CL305-51m] 度岡寺 Dugong Gampa [中華民國地圖集-II-60m-E3] Дугонг-Гомпа [USSR-1/20-H-46-15-77m]
◯編註 古くからこの地域の地図には「ドウゴン・ゴンパ」が表記されていたが、近年発行の中国の地図ではその存在を確認ができない。 + #162:レティン寺 {木村} / レコンゾン {西川} / レコンゾン {沢木} Reting Gomba [RGS1884m2] Retang [Dutreuil de Rhins1889m] 勒整 [西蔵全図04m] Reting My. [SOI14m] Reting Gomba [Pereira25m] 熱振寺 [西藏地方詳圖39m] レティンゴムパ [陸測-1/100-印東-3-42m] Reting Gompa [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Reting Gompa [USAF-1/200-CL305-51m] 热振寺 (Razhêng) [西蔵地名96, p410] 热振寺(林周県)[西藏自治区地図冊2024, p28-29]
◯編註 現在の热振寺(林周県)と比定される。詳しくは下記Wikipediaを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%83%AD%E6%8C%AF%E5%AF%BA + #163:「鉄鎖でつるしたつり橋」 {木村} / 「キチュ河を橋で渡り」 {沢木} 蓬多和屯 [乾隆十三排圖(十排西三)(清廷三大実測全図集2007)] Phondu [RGS1884m2] Phondou (Poumdo dzong) 4033 [Dutreuil de Rhins1889m] 旁多城 [西蔵全図04m] Phondu [SOI14m] 旁多宗 [西藏地方詳圖39m] 吊橋, ポンヅ [陸測-1/100-印東-3-42m] Pongdo-dzong [AMS-5304-1/150-X11-45m] Phongdo 4065(13340) [AMS-1301-1/100-NH46-47m] Phongdo Dzong [USAF-1/200-CL305-51m] 旁多 (Pondo) [西蔵地名96, p364] 旁多乡 (林周県)[西藏自治区地図冊2024, p28-29]
◯編註 木村や沢木が記した「キチュ河にかかる橋」というのは、「大清一統志」にも記述がある旁多(林周県)にかつて存在したつり橋と考えられる。詳しくは下記Wikipedia及びこちらを参照のこと。(2026年1月現在) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%81%E5%A4%9A%E4%B9%A1 ちなみに、林周県旁多郷のかつての中心地域(ラサ河等の合流点付近)は、現在では旁多水力発電所のダム湖(2011年にせき止め開始)の湖底に沈んでいる。 |
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| (21) 旁多~ラサ |
(・・・)気はあせるが体が弱っていているので道がはかどらない。耳鳴りをがまんして、はうようにして最後の岩かどをまがった時、ラサの町、輝く金蓋のポタラが見えた。 (p214) |
やっと待望のラサに近づいて来た。タンラの山嶺#165を間近に見、楊柳が紺碧の淵となっている河面に、その影を投じているラサ近郊が迫って来ていた。(・・・) (p362) 西康の旅八ヵ月余の最後の日。沙丘の河畔を長らく進んで、突出した岩山の山鼻を回ると、遥か彼方にポタラ宮殿の黄金の屋根が燦然と輝いていた。(・・・) (p362) |
雨に降られ、水の中で眠るようなつらい夜もあった。 だが、やがて、河の対岸にメトグンカ#10の集落が見えはじめた。そこは、チャムド#77に向かう旅の実質的な出発点とも言えるところだった。 そこで野宿をし、朝になって歩き出すと、左手の丘の上にガンデン寺#9の白亜の殿堂が見えてきた。ついにラサの手前まで戻ってくることができたのだ。 夕方、ツエタン#164という集落に着き、一軒の農家に泊めてもらった。(・・・) それがこの旅の最後の夜だった。 翌朝、砂丘の河畔を進み、岩山の山鼻を廻ると、前方に黄金のポタラ宮が見えてきた。 (p171) 一歩一歩、ラサに近づいていった。(・・・) ポタラ宮殿の黄金の屋根がはっきり見えてきたとき、西川は心の中で熱くつぶやいていた。 まだ生きている、と。 (p172) |
#164: ツェタン {西川} / ツエタン {沢木} 「(・・・)六十里至墨竹工卡 有人戸柴草大寺院路平 六十里至拉末 八十里至德慶 四十里至砌塘 人名菜里皆有人戸柴草並大寺院 三十里 過機楮河 至拉撒召(・・・)」[乾隆西藏誌1792(自四川成都抵藏程途)](編者想像) 菜公堂 Caigungtang (蔡里、菜宗) [西蔵地名96, p55] (編者想像) 砌塘(蔡里) [辺埧県志2021, p391] (編者想像)
◯編註 不明(ラサ手前の集落名「ツエタン」については、「ツエタン = 砌塘(蔡里)」の可能性を編者は想像している。しかし、その場合、木村・西川はキチュ河北岸を進んでいたはずなのに、ラサの手前でキチュ河南岸に移る矛盾が生じ疑問が残る。) #165:「タンラの山嶺」 {西川} ◯編註 位置関係から考えると、「タンラ」は「ゴーラ」の間違い(編集上のミス?)ではないかと推測される。 |
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| 木村82 | 西川91 | 沢木2025b | 註釈 | |||||||||||||
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| (22) ラサ帰着 |
暗くなりかけたラサの町をまっすぐジャムツの家に行った。八月初旬だった。ジェクンドオ#111から二ヵ月かかったわけである。去る二月ラサを出発してから半年ぶりである。 (p214) |
(・・・)秋風が吹き渡る麦畑の中を進んで、懐かしのラサに辿り着いたときは、陽は早や西に傾こうとしていた。(・・・) (p362) |
ラサに辿りついた二人は、木村がカムに出発する前に世話になったジャムツォの家に向かった。 (p173) |
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| 区分 | 本文 ()内はページ数 |
*木村82, p193 / 木村58, p172 「東チベット一周図」 |
本文 ()内はページ数 |
*西川91, p268行程図 [ ()内は西川68, p41の表記 ] |
本文 ()内はページ数 |
註釈 | ||||||||||
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| 鑪藏道里最新圖(1907)[部分] (出典:Wikimedia Commons [2026年1月閲覧]) [URL: https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Local_history_of_Tibet ] |
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| List of 7000m & 8000m Peaks in the Himalaya |
| Copyright by Y. YAMAUTI (2026) |
| (Appendix 5: Identification of the exploration route on Eastern Tibet by KIMURA H. and NISHIKAWA K. (1947/2~1947/8)) |
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