ヒマラヤ - 7000m以上の山々 - *

* Set up 2008/4/1
* Updated 2024/5/14

ヒマラヤ - 7000m以上の山々 -

* 後記 Afterword


 ヒマラヤの山々に関心を持つようになったのは、1970年代末に深田久弥氏の「ヒマラヤ登攀史 (第二版)」(岩波新書, 1969)を読んだ頃からだった。当初は「ヒマラヤの山がどのように登られていったのか?」という観点から登山史に関心を持ち、深田氏の白水社版「ヒマラヤの高峰 (全3巻)」や岩と雪「山岳年鑑」などをもとにして1980年代半ばには7000m以上の山の初登頂者リストを手書き(当時はワープロさえなかった・・・)とコピー(製本は自流で行った)でつくったりもした。その巻末には附録として7000m峰の一覧表を載せてみたが、リストをつくっているうちに人名や国名が羅列された登山史から「どんな山がヒマラヤにあるか」という山の地理的分布に関心が変わっていった。このWeb Siteは当時作成した一覧表をもとにして標高、地図、写真等の典拠をさかのぼれるように文献情報を盛り込んだものである。文献情報の記述方式については渋沢敬三氏の 「日本魚名集覧」 (角川書店, 1958)や "NESTLE-ALAND Greek-English New Testament (Eighth revised edition)" (Deutsche Bibelgesellschaft, Stuttgart, 1994) 等から多く示唆を受けた。前作からほぼ四半世紀が経過したが、この間にヒマラヤ地域の情勢も情報入手のための環境も劇的に変わったという感慨を持っている (日本人によるヒマラヤ登山の盛衰史については、池田常道氏 (「岩と雪」の編集長を長年務めた) による簡潔ではあるが的確にまとめられた論考 (池田2008) があり、日本隊の登山クロニクルとしては馬場勝嘉氏による労作(日本山岳会百年史編纂委員会・馬場・渡部2007, 2008)が刊行されている[2009. 1 追記]。)
 (その後、7000m峰に挑んだ日本隊の登山クロニクルとして山森欣一氏(日本ヒマラヤ協会の月刊誌「ヒマラヤ」の編集・発行に長年たずさわった)による労作(山森2009)も刊行された[2009. 4 追記]
)

 以下に概要を記す。

 編者が上述の初登頂者リストを作成した1980年代前半にはすでに中国領内の山が外国登山隊に"解禁"され始めていたが、中国-インド及びインド-パキスタンの政治的対立の影響でアッサム・ヒマラヤナムチャ・バルワギャラ・ペリカント東部カラコルムではマモストン・カンリリモといった7000m峰は外国隊には許可されず未踏のまま残されていた。その後、1980年代後半になるとヒマラヤ周辺諸国の政治情勢の変化(中国・インドの関係改善、ソビエトの解体等)によって入山事情が一変した。アッサム・ヒマラヤ東部カラコルム崑崙山脈青蔵高原の山が外国登山隊に解禁されるようになると、これらの地域にあった7000m級の未踏の独立峰は1990年代前半までにほとんどが登られてしまった(その多くが日本隊によるものだったが、こうした情勢の変化は1980年代前半当時の編者には想像もつかないことだった)

 現在のヒマラヤは、観光地としての整備が進んだクーンブ山群やラサにまで鉄道が開通(さらに延伸が計画されているようだ・・・)した青蔵高原に代表されるように、"秘境"や"未知"といった言葉がついたイメージ(一部地域には残っているかもしれないが・・・)は過去のものになったという印象を編者は持っている。

 1970年代後半〜1990年代前半にかけて世界各国からヒマラヤに入山した登山隊の記録は、山と渓谷社が刊行していた「山岳年鑑」や隔月誌「岩と雪」によってその全体像を把握することができたが、1995年に「岩と雪」が休刊し(その後「Rock and Ice」として復刊はしているが、編集方針が大きく変わりヒマラヤ登山の情報は減少している)、「山岳年鑑」も1995年以降刊行されなくなった。現在(2008年)では日本の山岳雑誌(「岳人」、「山と渓谷」等)からは断片的なヒマラヤ情報しか得られなくなっている(「山岳年鑑」休刊後のヒマラヤ登山の動向については、幸いなことにAmerican Alpine Clubの年報 'American Alpine Journal (AAJ)' で概要を知ることができる(AAJについては、2011年以降何年かは会員だけに配布となったこともあった[2024.5.14追記]))。かわりに1990年代後半からは、インターネットの発達で日本や海外のヒマラヤに関係したさまざまな情報が容易に入手できるようになっている旧ソ連参謀本部が作製したヒマラヤ地域の詳細な地形図旧日本軍が作製したインド周辺の外邦図、海外で発行された洋書や地図等についてはインターネットがなければ詳細を知ることはできなかっただろう)(さらに最近では、欧米の大学等のWeb Siteで19世紀やそれ以前の古地図について細かい地名・山名まで読みとれる形で公開されるようになっている[2009. 5 追記])
さらに最近になると、This Mountains of Central Asia Digital Dataset (MCADD) [http://pahar.in/]のようなインド測量部等の報告書を集成したWeb Siteも登場している

 各論にうつる
 このWeb Siteでは従来の区分方式にもとづきヒマラヤを階層的に分類しているが、いくつかの山域の区分は地形的条件よりも政治的条件(それもヒマラヤ山脈の分類にみられるように20世紀初頭の政治的境界のため、現状にも対応していない)に比重がおかれたものだという印象を編者は持っている。標高の精度についても課題が多い。エヴェレストについては近年新たな標高値 (8850m) が発表されたが、K2は20世紀初頭と変わらぬ値 (8611m) が現在も用いられており、世界第2位の山がK2カンチェンジュンガのどちらであるか未だに確定されてないのでは?と思うことがある。ヒマラヤの山域分類や標高については、いずれ根本的に見直される時代が来るであろう(21世紀に入ってからの(Google Earthに代表される)Web上での衛星画像の普及を思うと、その時期は遠いことではないだろうと編者は期待をしている。なお、ヒマラヤに代表される高山の標高測定の難しさについては、測量の専門家である鈴木弘道氏の記述が参考になる(鈴木93, 鈴木2002))

 このWeb Siteに収録した山名、標高、写真等の文献情報については、編者が入手あるいは図書館での閲覧等で得た情報に限定し、日本あるいは世界の文献を網羅しようという性格は持っていないことをお断りしておきたい。1990年代に編者がデータの収集を始めた当初は、写真や標高等の情報が多い地域ネパール・ヒマラヤバルトロ山群等)については、紙面のバランスなどに配慮し質の高いものだけを収録しようと考えたこともあった。しかし、精選した文献情報だけを記載した場合、そうした文献へのアクセスが現在では必ずしも容易ではなくなっているので、編者はなるべく多くの情報を入力することに専念して、利用者はこれらの中から自身がアクセス可能な資料を選択・判断できるように方針を転換した。当然ながら編者が紹介したこれらの文献については大半を保有していないし、こうした文献情報を一括して保有するようなライブラリーもおそらく存在しないであろう。いくつかの資料については、所蔵する図書館の整理番号も記載しようとも思ったが、調査から10年以上が経過し所蔵状況が大きくかわったおそれもある(国会図書館ですら、この10年で蔵書の所在を大きく変更している)ので、関心のある資料があれば各自がWeb検索等を活用して探していただきたい。なお、このWeb Siteで採用している標高値の選択基準や、山のType分類、写真の鮮明度は、あくまで編者の主観的な判断であり、客観性や芸術性に判断の根拠をおいたものではないこともご了解願いたい(特に、写真の鮮明度の評価は編者の感覚的な要素が大きく、相互の写真についての比較検討もほとんど行っていないため、判断にはかなりのばらつきがあることを編者も認識している。きわめて大まかな目安程度の指標だと思っていただきたい。標高については、権威ある測量機関が発行する最新地図の表示値に引用を限定するのが理想的ではあるが、現状ではまだ無理だと思う)

 中国語の山名表記や一部の人名漢字については、文献上に記載された簡体字の代わりに旧字体を用いたり、該当部分にゲタ文字 (〓) を入れて項目の末尾に図示を行ったりしている。これは日本語の文字コード(JIS漢字)にない漢字を表示しようとした便法であり、他意はない。

 参考文献については、このWeb Siteの参考文献のリストを見ていただければわかるが、引用している文献の種類としては書籍、雑誌、地図、CD-ROM等、Web以前の資料に限定し、(多少例外はあるが・・・)原則としてWeb情報を直接の典拠としない方針にしている。それは、Web 情報は引用の永続性を持ち得ないのではないか?という疑問を編者は持っているからである(さらにいうなら、編者の関心はWeb化される以前の情報にあり、Web情報のリンクを継続して維持管理する能力・意欲を編者が持ちえていないこともある)
(最近ではWeb上の"Google Earth"[ http://earth.google.com/intl/ja/ ]で表示される画像の解像度が向上し、ピーク同定の有効なツールとなりつつある(例:西部崑崙山脈) [2010.1 追記])


 このWeb Siteで紹介した各山域については、入山事情の変遷について簡単な概要を記しているが、近年では政治情勢の変化で入山事情が急変する状況も多く、編者は最新情報の追跡を行っていないので、関心のある方はWeb等を使って、より正確な情報を入手していただきたい。

 各山域の概念図については、編者が PC-9801 系パソコンを使っていた当時、地図作成ソフト「多機能世界地図システム 地図をください」(佐藤善幸, アスキー出版局, 1993)に編者が山河データを増補した原図を画像処理ソフト「花子」(ジャストシステム)経由で gif ファイルに変換したものをさらに加工して掲載している。一部の山群の項目末に掲載されている各ピークの位置関係を説明する簡単な概念図は、PC-9801時代のワープロソフト(一太郎)で描いたものである(ワープロの作表機能で斜め罫線が使えない当時の作である。理解の参考にならないかもしれないが、個人的には思い出深いのでこのWeb Siteでも gif ファイルに変換して掲載した)

 附録2のヒマラヤの山の数についての考察については、当初は先行資料がないことを前提に推測を行っていたが、20世紀初めに S. バラードが編者と同じような考察を行っていたのがわかったので比較を行ってみた。考察では7000m未満の山についてバラードや編者等の推測数を挙げてみたが、莫大な数が予想されるので7000m未満の山について体系的に情報を集める場合には、アプローチの面から考える必要があるだろう(このWeb Siteでは7000m以上の山を1つ1つ識別してそれぞれの情報を集める手法をとっているが、7000m未満の山に対してはこうした手法はほとんど不可能になると思われる)。この考察を行うことで編者は自分のデータ収集の 「守備範囲(つまり、7000m以上が能力の限界)」 を確認することができ、7000m以上の山に限定してデータを入力し、このWeb Site の構築を行うことができたと思っている。

 附録3にあげた7000m以上のピークの初登頂リストについては、ディーレンフルト78巻末の初登頂リスト(1960年まではディーレンフルト、1961年以後は馬場勝嘉氏が作成)及び山岳年鑑、AAJ (The American Alpine Journal) 等をもとに作成している。このリストについては、編者が現在の視点から山名や標高等を遡及的に判断を行っているので、初登頂当時とは判断が異なっている山がいくつかある。そのため、登山史の観点からみる場合には注意が必要である(ほぼ同じ高さの2つのピークを持つチョゴリザを例に挙げれば、1958年当時の標高では北東峰が南西峰よりも高いとされたため、日本隊は当時の"最高点"である北東峰に登頂した。しかし、現在では標高が変わり南西峰の方が高いとされることが多い)

 最後になるが、このWeb Siteを制作するにあたって、具体的な名前は挙げないが編者が文献情報の閲覧・入手に利用した多くの図書館、国内外の書店、古本屋等の方々に深く感謝したい。また、現在でも登山とは無縁の編者に書籍などを通してヒマラヤへの興味を向けさせてくれた深田久弥氏、諏訪多栄蔵氏、吉沢一郎氏、そして、深田氏の「ヒマラヤの高峰」以後のヒマラヤ登山について優れたクロニクルを提供し続けてくれた「岩と雪」や「山岳年鑑」、そして日本ヒマラヤ協会の「ヒマラヤ」の編集にたずさわった方々にも同じく感謝したい。もちろん、こうした記録を生み続けてきた有名無名の多くの登山家、探検家、測量官、写真家たちにも・・・。

 2011年2月末の更新から10年以上が過ぎてしまった。前回の更新直後に東日本大震災が発生し、その後も長い間放置していたのは、今回の更新で新たに追加した附録4(「欽定大清一統志」に記載された西蔵の山嶺について)にかかりきりだったからである。
 附録4は分量も大きく、高峰ではない山嶺の地誌なので別扱いにすることも考えたが、参考文献・地図が共通しているので附録扱いにした。 [2023.2.10 追記]

List of 7000m & 8000m Peaks in the Himalaya
Copyright by Y. YAMAUTI (2024)
(Afterword)

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